二百二十六、
2012/6/8
楽観視
自宅軟禁から脱出してアメリカに渡った、中国の人権活動家のインタビューが報道されました。中国に残した家族の状況については、アメリカと中国国民の注目が高いことなどを理由に、「楽観視している」と伝えられました。アナウンス部では「楽観視」は重複表現かどうか、話題となりました。
私は、「楽観」はそれだけで【物事をよいように考える・明るい見通しを持つ】の意味だから、さらに「視」をつけるのは重複だと考えます。「楽観視はよく使われる表現で、慣用的に認めてもいいのでは」という意見もありました。
「楽観視」と同じような構造の言葉を洗い出してみると、「重要視」「絶対視」「問題視」「疑問視」などがあります。これらも何気なく使う言葉です。ともに、ある物事を「重要であると見る」「絶対であると見る」のように、物事をどう認識するかを示す言葉です。この考え方に「楽観視」をあてはめると、「その物事が楽観であると見る」となります。文として成立しません。
「する」を付けてみると、「問題する」「絶対する」では言葉になりませんが、「楽観する」は意味が通ります。ですから「楽観」だけで【明るい見通し】となり、「視」は不要だと考えます。「悲観」は「楽観」の反対語ですが、「悲観視」という使い方はありません。
こうして考証してみると、「楽観視」はやはり重複表現です。辞書の見出し語にもありません。しかし、実際には「楽観視」に抵抗がない人は少なくありません。今後もメディアに登場するでしょう。
「楽観的に見る」と、「的」を付けることはあります。この「的」は、「傾向で」という意味だと解釈できます。「楽観視」を使う人は、「楽観的」と同じように「楽観傾向で見ている」というニュアンスで「視」をつけるのでしょうか。
いずれにせよ、私は「楽観視」は使うべきではないと考えます。こだわりすぎでしょうか。