1945年の8月、福岡県で電車が銃撃されたアメリカ軍による空襲では、民間人を含めて100人以上が亡くなったとされていますが、当時の記録が残されておらず、犠牲者のうち、わずか11人しか身元がわかっていませんでした。

 今回、ニュースOneの報道がきっかけで、愛知県春日井市の男性が犠牲者の1人であることが明らかになりました。息子が75年間知ることがなかった「父の死」の真相、その足跡を辿りました。

■母から伝え聞いた父の死…紐解かれ始めた真相

 1945年8月8日。線路を走る電車に打ち込まれる、無数の銃弾…。75年前、福岡県筑紫野市で、西日本鉄道の列車をアメリカ軍による銃撃が襲いました。死者100人以上ともいわれる「西鉄電車銃撃事件」の記録です。

 愛知県春日井市に住む林猛さん(76)。

 西鉄電車銃撃事件で、父・三夫さん(享年27)を亡くしました。

林さん:
「私もまだ生まれて10か月のことですので、何もわからない…。父親の顔も分からないという状況です」


 父が亡くなったとき、林さんは生まれたばかり。父親の記憶はありません。私たちが林さんと出会ったのは、今年8月の取材でした。

 ニュースOneで放送した戦後75年の特集。愛知縣護国神社を訪れる参拝客にインタビューした際、偶然出会ったのが林さんです。

 この時、 林さんは「軍人だった父が福岡で銃撃を受けて亡くなった」という、母から伝え聞いた事しか知りませんでした。

 しかし、この放送がきっかけで、75年間知ることがなかった父の死をめぐる真相が紐解かれていくことになります。

■父が導いてくれた…取材がきっかけで明らかになっていく“死の真相”

 9月23日、林さんを訪ねてきたのは「西鉄銃撃事件」の調査をしている学芸員の草場啓一さん。福岡県からはるばる足を運びました。

草場さん:
「ニュースで林さんが護国神社のお参りをされているシーンを見ました。なぜ亡くなられたのか、詳しくは存じあげないけれども、1945年8月8日に列車で銃撃されたと。内容的に、ほぼ私が調査している筑紫駅の案件と合致すると…」

 林さんを取り上げた特集を、偶然インターネットで見つけた草場さんからニュースOneに連絡が入り、この日、2人が出会うことになりました。

 草場さんの調査によると「銃撃事件」で襲われたのは、西日本鉄道の筑紫駅に向かっていた上下2本の列車。車内は満員で、犠牲者は100人以上にのぼったとされています。

 しかし、当時の記録は戦後の火事などで失われ、わずか11人しか身元が分かっていませんでした。

 当時、列車を攻撃したアメリカ軍の戦闘機のカメラ映像がアメリカに残されていました。父・三夫さんは、軍の任務で久留米に向かうため、この電車に乗っていました。

草場さん:
「あの駅に止まっている電車に、お父さんが乗っておられたのですよ」

林さん:
「作ったものじゃなくて、映画じゃなくて本物なので、それも父が亡くなった映像ですので、貴重な場面ですよね、私にしてみると。これもひとつ、本人の無念さというのがあって、そういうものをお前たちも知っておいてくれ、ということを本人が言っているような気もします」

■一生忘れられない…当時8歳の目撃者が語った事件の惨状

 10月6日、「西鉄電車銃撃事件」で父親を失った林さんは、父が最期を迎えた福岡県に向かいました。

林さん:
「期待もありますし、やっとちょっと父に会えるような気もしたり、複雑な思いですね」

 「銃撃事件」を調査している学芸員の草場さんの案内で、事件を目撃した山口順子さんのもとを訪ねました。

75年前の銃撃を目撃した山口さん:
「まだ私も8歳でしたから。それでも一生忘れられないですね、あの衝撃は」


 山口さんは当時8歳でしたが、その瞬間を鮮明に覚えているといいます。

山口さん:
「本当に目の前を飛行機が行ったんですよ。それも空襲警報が解除になった後で、みんなで遊んでいたんですよ。そうしたら、いきなりものすごいバンバンバンと…」


 駅近くの山の上から銃撃を見たという山口さん。米軍機が過ぎ去ったあとに残されたのは、多くの遺体でした。

山口さん:
「近所のお母さんは、遺体を片付けに行ったり、掃除にいったり、奉仕して疲れ果てていたのは覚えています。母なんかはしたことないのに、血だらけの人を抱えてトラックに乗せるのを手伝って…」

林さん:
「現地で父も亡くなっていますのでおそらく地域の方には、お世話になったりしたのではないかなと」

 体験者の鮮明な記憶に、父の“最期の日”の情景が浮かび上がりました。

■父が撃たれた場所は…銃撃にさらされた筑紫駅の今

 事件があった筑紫駅に向かうため乗り込んだのは、西鉄大牟田線。父が最後に乗った電車と同じ路線です。

林さん:
「なんとも言えない思い。当時はどうだったのだろうとか。こうやって電車乗ってきたのかな」

 75年前、銃撃にさらされた筑紫駅。

 当時は田畑に囲まれた小さな駅でしたが、今は建て替えられて新しい駅に変わっていました。

草場さん:
「この踏切は当時から変わらない位置にあるんですよ。撃たれた場所というのは、1番後方の車両が止まっていたこの辺りになります」


 父が亡くなったあの日の面影は、もう残っていません。

草場さん:
「負傷者や重傷者が動けずに倒れているのを、お父さんが救出に行こうとして、撃たれているんですよ」

■無念さが強く…書簡から明らかになった“父の死の真相”

 銃撃のさなか、民間人を助けようとしていたという父・光夫さん。その真実を明らかにしたのは、一通の「書簡」でした。

 父・三夫さんの上官から林さんの母に宛てられたもの。取材をきっかけに、父の死について調べ始めた林さんが自宅で見つけました。

(75年前に父の上官から母に宛てられた書簡)
<車中の負傷者を下車せしむべく再び乗車せんとする際…機銃掃射弾を受け負傷…>

 軍人だけでなく多くの民間人も乗っていた電車。父は命の危険にさらされながら、ケガ人を助けようと車内に戻り、銃弾に倒れていました。

林さん:
「銃弾で撃たれて、痛い思いをしながら苦しんで亡くなった。しかも、無念さがおそらく強くあったと思いますよね。だからそういうことを思うと…」

■心が落ち着くような所…75年前に父も見た景色

 鳥居の先に広がる、真っ青な海。この海岸で、父・三夫さんは本土決戦に備えるための、基地整備をおこなっていました。

林さん:
「素晴らしい景色…」

草場さん:
「そうですね、お父さんも毎日この景色を眺めておられたと思いますよ」

林さん:
「心が落ち着くような所ですよね」

草場さん:
「戦争がなければですよね」

 父が最後に過ごした場所。75年経ったいまも、海の景色だけは変わっていませんでした。

林さん:
「この景色だけは当時と全く変わっていないですから、感慨深いところはありますよね。全部のことが出発から終わりまですべてが父の気持ちが来たような、そんな感じがありますよね。父の思いが、そういう風に叶えてくれたというか、そういう風に導いてくれたのかな」

 父の気持ちに思いを馳せる林さん。戦後75年、風化が進む中でひとつの真相が明らかになりました。