東日本大震災から10年を迎えましたが、特に福島の人にとっては福島第一原発の事故からの10年でもあります。

 2021年3月に福島県いわき市から自主避難し、現在岐阜市で暮らす50歳の女性は、震災直後に出産した小学4年生の長女を連れ、10年ぶりにかつて住んでいた我が家を訪れました。そこには「帰りたいけど、まだ帰れない」故郷の姿がありました。

■地震速報の警報音響く中で…近くの産婦人科は閉鎖 隣県の病院で出産

 松山要さん(50)と小学4年の長女・芽依奈さん(9)は10年前、福島県から岐阜県に自主避難しました。岐阜市の一軒家で家族4人暮らし。避難してから3軒目の家です。

 芽依奈さんの誕生日は2011年3月24日。東北を襲った未曽有の大地震、東日本大震災の13日後です。震災の当日、身重の松山さんは震度6弱を観測したいわき市に住んでいました。

 自宅付近に津波の被害はありませんでしたが、近くの産婦人科は全て閉鎖。やっとの思いで見つけた茨城県水戸市の病院で、芽依奈さんを出産しました。

 地震速報の音が鳴る中の出産となり、感動よりも、早く済ませたい思いの方が強くなってしまったと松山さんは当時を振り返ります。

 3400グラムで元気に生まれた芽依奈さん。故郷・福島で大切に育てていくはずでした。

■生まれたばかりの娘を守りたい…避難区域外でも「自主避難」を決断

 福島第一原発で起きた最悪の事故。事故の翌日には原発の半径20キロ圏内に避難指示が出されるなど、多くの住人が福島県内外への避難を余儀なくされました。

 松山さんの自宅があったのは、第一原発から55キロ。避難区域ではありませんでしたが、松山さんたちは自主避難という形で故郷を離れました。

松山さん:
「放射線の被害が出るかどうかが一番不安で。とにかく芽依奈を守らなきゃいけないと思って…」

 得体のしれない放射線への恐怖がありました。

芽依奈さん:
「震災さえなければそのまま、いわき市で平和な暮らしを過ごしていたと思う。本当の出身は福島県いわき市だから」

 松山さんは、いわき市は「本当は帰りたいけど、まだ帰れない故郷」と話します。

■全国で起こされた原発事故による避難者の訴訟…半数は国の責任認められず

 松山さんは、6年前から岐阜市の障害者施設で職業指導員として働いています。福島では、夫婦で整体院を営んでいましたが、原発事故でその仕事も失いました。

 原発事故による避難者らが国や東電を相手取り、各地で裁判を起こしています。松山さんも名古屋地裁での避難者訴訟に参加。しかし一審判決では国の責任は認められず、現在控訴審に臨んでいます。

 全国で起こされた裁判の1審判決14件のうち、半数は国の責任が認められませんでした。その判断を分けているのは「津波の予見可能性」です。

 2002年に国の機関が公表した地震の長期評価では、巨大な津波を伴う地震が福島県沖でも起きる可能性を指摘。この長期評価によって「津波が予見できた」と判断した裁判では、国の責任が認められましたが、二審の高裁判決でも、判断が分かれています。

 福島を離れ10年。故郷に後ろめたさを感じたこともありました。

松山さん:
「『あなたたちって逃げた人でしょ』っていう、レッテルを貼られているのですごく戻りづらい。(自主避難した)私たちはやっぱり正しかったんだって、証がほしいというか…」


「そこに残った人」と「自ら離れた人」。同じ福島にいたのに、あの事故で生活も立場もバラバラになりました。

■生まれて10年…初めて娘に語った“あの日”の出来事

 3月6日、松山さんは芽依奈さんを連れ、福島県いわき市へ。訪れたのは2020年5月に開館した「いわき震災伝承みらい館」です。いわき市内の震災被害や原発事故の記録を展示しています。

松山さん:
「(津波の映像を見て)ママ、テレビでこういう映像見ながら震えてた」

 生まれて10年、芽依奈さんが初めて目の当たりにする震災の記録。松山さんは「原発事故と避難」のパネルを見ながら、芽依奈さんに事故のことを伝えます。

松山さん:
「ここから放射能が漏れているわけ。これの危険で避難したんだよ。これが、あなたに物凄い影響を及ぼすかなと思って逃げたの」 


 芽依奈さんは、津波犠牲者の展示の中に、今の自分と同じ小学4年生の少女が、生前10年後の自分に宛てた作文を見つけました。

芽依奈さん:
「本当はデザイナーの夢があったのに…。生きていたら20歳になったかもしれないのに、震災のせいで命を失って…」

■当時避難したのは松山さん一家だけ…「帰りたいけど、まだ帰れない」ふるさと

 2人は福島第一原発から55キロにある故郷、いわき市泉町へ。新しくできた店や原発で働く人が住んでいるのか、ワンルームマンションなど故郷の景色は一変していました。

 10年ぶりに訪れたかつての我が家は、今は別の人が暮らしているため、建物の裏側から眺めます。

芽依奈さん:
「最初からこの家のままだったら、そのまま平和に暮らせたんだろうなって思った」

 見た目には震災の影響を感じさせない、静かな町。当時近所で避難したのは、松山さん一家だけでした。

松山さん:
「うちは避難しているし、会っても向こう(近所の人)もどう言っていいかわからないだろうから、あんまり会いたくないかな…」


「色んな考え方があり、したくても避難できなかった人もいたと思う。一概に何とも言えないが、避難した人もしなかった人も、大変な生活を強いられていることはわかってほしい」と松山さんは話します。

 2人は、松山さんが大好きな“ふるさとの海”へ。

 40年かかるともいわれる、福島第一原発の廃炉作業。放射線への不安をぬぐえない限り…。国の責任が認められない限り…。

松山さん:
「帰りたい故郷があって、それを帰らせてもらえない環境がある。すごく辛い事なので、故郷を失うっていうこと、誰にもしてほしくない」

 あの日から10年…。“帰れるはずの故郷”に、まだ帰れません。