1984年滋賀県日野町で、酒屋の店主が殺害された「日野町事件」では、刑期中に亡くなった阪原弘元受刑者の長男・阪原弘次さんが父の無罪を訴え続けています。事件からおよそ35年、再審の扉が開かれつつあります。

■遺族「父の無念を晴らすのが残された者の責任」…病床で無罪を訴え続けた父のため再審請求

 自白の信用性を争い、無罪を訴えながら本人が刑期中に死亡。その後も遺族が再審請求を続けている、36年前、滋賀県日野町で起きた強盗殺人事件。

 阪原弘次さん(59)。父が有罪となったのは、自白を強要されたためとして、無罪を訴え続けています。

 1984年、滋賀県日野町で酒屋の店主の女性(当時69)が殺害され、金庫が奪われた「日野町事件」。

 3年後、「山に金庫を捨てた」という自白を決め手に、警察は弘次さんの父、阪原弘元受刑者(当時53歳)を逮捕しました。しかし…。

弘次さん:
「父ちゃん殴られても、蹴られても自分がやったとは言わなかったけど、(警察に)『娘の嫁ぎ先行って、家の中ガタガタにしたろか』と言われて、どうにも我慢できんかったと」


 当時、結婚したばかりの娘たちの幸せを脅かされたことが、嘘の自白を生んだといいます。

弘次さん:
「父ちゃんが『やった』と言ったら、私らは犯罪者の家族になるんやで。『やってへんもんはやってへん』って言わないかんのちゃうかって」

 家族の後押しを受けた阪原元受刑者は、裁判では否認を続けましたが、2000年に無期懲役が確定しました。

 その後、獄中から再審を請求していましたが、肺炎などを患い入院。病床でも無罪を訴え続けました。

阪原弘元受刑者(入院当時):
「ひどい暴行で、『はい、私がやりました』と言ったときに、3人の刑事はにっこり笑い…。皆さん、どうぞ、私を信じてください」

 しかしその思いは届かず、2011年3月、75歳で亡くなりました。

弘次さん:
「今、父はいませんけど、父の無念、名誉を回復してやるのが、残された人間の責任ではないかと思うようになり、再審請求を決めました」

■自白を裏付けた写真に不自然な点…「証拠写真」のネガが語ったこと

 2012年、弘次さんらが遺志を引き継ぎ、2回目の再審を請求。

 ここで担当の裁判官が代わると、400点以上の証拠が新たに開示され、大きな転機をむかえました。

 弁護団が注目したのは、逮捕の決め手となった「山に金庫を捨てた」という自白を裏付けたとする写真。捜査員らを発見現場に案内する様子の写真ですが、その“ネガ”からある事実が明らかになりました。

日野町事件の弁護団:
「山の入り口から登って現場に行って、帰り道も帰っていった。その経過が写真で残っている。証拠に使われていたのが、ほとんどが帰り道に向きを変えて写していた写真を使っていた。虚偽の使い方をしている」

 当時証拠として提出されたのは、金庫を捨てた山へ捜査員を案内する様子を、時系列に撮影した19枚の写真。

 しかしネガに映る順番は、このうち8枚が捨てた場所へ案内した後、つまり帰る途中に撮影されたものでした。

■「捜査官の軽率な態度は厳しく非難されるべき」開かれた再審の扉…遺族は今も戦い続ける

 審理で弁護団は、「警察に誘導される形で、なんとか金庫の場所を探していた」と主張。当時担当した警察官は「金庫まで案内できたことは問題ない」などと説明しましたが、2018年7月、大津地裁は、「捜査官の軽率な態度は厳しく非難されるべき」としたうえで「自白全体の信用性を大きく動揺させる」などとして、再審開始を決定しました。

弘次さん(2018年再審決定後):
「父が今ここにいない悲しみはあります。この喜びを噛み締めていきたいと思います」

 決定後、検察側が即時抗告したため、現在も再審の開始については大阪高裁で審議が続いていますが、遺族が継いだ意志が「自白の信用性」を揺るがし、大きな一歩を踏み出しています。

 弘次さんは、「父がやってないのは間違いない。父のことは微塵も疑っていません」と非業の死を遂げた父親の名誉を回復するため、今も戦い続けています。