今年1月に東海テレビが放送した、世界への約束2020「マラソンランナー鈴木亜由子~出会いのチカラ~」。

 愛知県豊橋市出身の陸上・鈴木亜由子選手(日本郵政G女子陸上部)が女子マラソンで日本代表を射止めるまでを追ったスポーツドキュメンタリーだ。

 高橋昌彦監督と出会い、マラソンランナーとして成長していった鈴木。番組のラストは、正月の神社で「東京五輪 金メダル獲得」と鈴木が絵馬に記し、真夏の決戦に向け覚悟を持って歩み出すというシーンだった。

 しかしその後、新型コロナウイルスが世界的に流行…。

 壁にぶつかる度、もがき苦しみながらもその先の答えを見つけてきた鈴木選手だったが、今回の“壁”は相当高い。東京五輪の開催自体も危ぶまれているという現在の状況では、根本的なことが揺らぎかねないのだ。

 それは「何のために走るのか、自分にとって走ることとは何なのか」。

 鈴木亜由子は今、その問いに何と答えるのだろうか。あらためて東京五輪をどんな思いで目指してきたのかを振り返ると共に、想定外の物語の続きを連載企画としてお送りする。

<1> 高橋昌彦監督との出会い「マラソンは我慢スポーツ」

■走れない時でも我慢して耐えられるだけの強さが必要

 2020年、五輪イヤーの元旦。鈴木亜由子は合宿地の鹿児島県徳之島にいた。

鈴木選手:
「決意が新たになりますよ…」

 雲の切れ間から一瞬だけ顔を出した初日の出を見て、彼女はそうつぶやいた。

 東京五輪。その舞台で戦う為に残り7カ月の準備期間で、より厳しい練習に挑む覚悟を決めていた。

 指導する高橋昌彦監督にとってもそれは同じだった。

 東京五輪女子マラソン挑戦は、日本郵政グループ女子陸上部創部以来の夢でもあり、今は亡き恩師への誓いでもあったからだ。

 2014年に発足した日本郵政陸上部。監督に就任した高橋に課せられた使命は、6年後に控える地元開催のビックイベント東京五輪に選手を送り出すこと。高橋にとっても夢の舞台だった。

■『2020TOKYO鈴木亜由子強化プラン』とは

 高橋がノートPCにあるデータを見せてくれた。それは「2020TOKYO鈴木亜由子強化プラン」と題された目標達成シート。入社1年目の2014年から2021年までの8年間が、ステージ1からステージ3のブロックに色分けされ、具体的な目標が記されている。

 ステージ1のテーマは、怪我を克服しトレーニングを継続する為の土台作り。ステージ2の2016年にはリオデジャネイロ五輪が控えていた。年齢が20代後半から30代になるステージ3には、マラソンという文字が現れるようになり、そして2020年には「東京オリンピック メダル獲得」と記されていた。

 選手と面談し、本人の意思を確認しながらこの目標設定シートを更新し、数年先を見据えた強化プランを立てている。

高橋監督:
「中学校の時の走りを愛知県で見た時に『本当にいい選手がいるな』と、ずっと注目していたところもあって。高校時代は故障等もありましたが、名古屋大学では順調に日本の大学界ではNo.1になって。一緒にやってみたいとずっと思っていました」

 高橋昌彦は、かつて愛知県でUFJ銀行やトヨタ車体の陸上部の監督を務め、双子の姉妹マラソンランナー・姉の大南博美選手、妹の敬美選手を指導し、世界選手権の舞台も経験している。

 その実績を買われ、2014年から新たに発足する事になった日本郵政グループ女子陸上部の監督を任されることになる。

 東京での五輪開催が正式に決定したのは2013年。その翌年に産声を上げる陸上部の監督に就任することになった高橋にとっても、東京五輪の舞台は大きなモチベーションとなった。

 大南姉妹を五輪の舞台に立たせることは出来なかった。今度こそ、夢を叶えるチャンスだった。

 真っ先に声をかけた選手が名古屋大学陸上部に在籍していた鈴木亜由子だった。大学4年で出場したユニバーシアード1万mで金メダルを獲得するなど、学生の中ではトップクラスの実力を持っていた。

 だが、高橋が鈴木をスカウトしたのには他の理由もあった。

■二人の出会い

 出会いは2006年に開催された愛知県の市町村対抗駅伝。当時、刈谷市に拠点を置くトヨタ車体陸上部で指導していた高橋は、大南敬美が市の代表に選ばれこの駅伝に関わった。

 そこで、一人の少女の走る姿に釘付けとなる。

 小柄ながらも躍動感のあるダイナミックなフォーム。30秒あった先頭との差をグイグイと縮めていく…。並ぶ間もなく一気にかわし、一度も後ろを振り返る事無く次の走者にタスキをつないだ。

 テレビ中継では、「楽しみな逸材が愛知には居ます!鈴木亜由子という名前を覚えておいてください!」との実況が聞こえる。風のように駆け抜けた15歳の少女の名は、脳裏に焼き付いた。

 この時は、まさか将来自分が指導する事になるなどと、想像もしていなかっただろうが、同じ愛知に暮らす天才ランナーの成長は、その後も気にしていた。

 だから、高校時代の挫折も当時から知っていた。

 鈴木は時習館高校時代に右足の甲の疲労骨折を何度も繰り返し、中学時代に天才少女と呼ばれた輝きを一時は失っていた。だが、陸上の練習に時間を割けない分、受験勉強にも力を入れ、難関の名古屋大学経済学部に合格する。

 陸上に関しては高校時代のリベンジを静かに誓い、レベルアップの為、男子生徒に混ざって練習に取り組んだ。実家から通うという選択肢もあったが、自立する為に一人暮らしをし、食事も自炊し栄養管理も独学で学ぶ。

 また、右足の怪我を再発させない為にストレッチや体幹トレーニングを研究。自己管理を徹底し練習後には自費で治療院にも通い詰めた。

 ひた向きに努力を重ねた甲斐あって、試合で結果を残し始める。「将来は実業団に進んでもやっていけるかもしれない」と自信を深めた。

 しかし、一方で大学卒業前のインタビューでは…。

Q.日本郵政陸上部で走ろうと決めた理由は?

鈴木選手:
「新しく発足するチームで、何もないところから歴史を作る事にやりがいを感じました。また多くの有名選手の指導に関わってきた高橋監督の下でやってみたいという気持ちもありました」

Q.東京五輪の時は何歳に?

鈴木選手:
「2020年だから29歳です」

Q.その時は、どんな競技が合っていますか?

鈴木選手:
「どうでしょうね、7年後とかは、まだ分からないですね.…」

Q.マラソンはトライしたいですか?

鈴木選手:
「正直マラソンは全然イメージが沸かないんですけど、もしかしたらやりたくなるのかなと思います。ただ、マラソン練習は想像がつかないぐらい凄い練習だと思うので自分にそこまでの根性があるのかなって。あんなにずっと長い間走っていられるのかな…」

 当時の鈴木は、まだ高校時代の苦い経験を完全には払拭出来ずにいた。

■マラソンは我慢スポーツ

 だが、高橋は鈴木にはマラソンランナーの適性があると確信していた。

高橋監督:
「高校時代に大きな怪我をしているってことは、彼女にとってはしゃがむ時期だったのかなと。マラソンは我慢スポーツだと思うんですけど、走れない時でも我慢して耐えられるだけの彼女は強さを持っていますね」

 競技に向き合う姿勢、苦しい時もじっと我慢して、決してあきらめなかった精神力は、長距離走者にとっての必要なこと。怪我を克服し、しっかりとした土台を作れば、必ず成功すると信じていた。

 脳裏に焼き付いていた中学時代の姿…「2020TOKYO鈴木亜由子強化計画」が始まった。

<2>へ続く

<2>絶対に、この舞台に再び立ちたい
<3>「俺は金メダルをとりたいんだ!」







(最終更新:2020/09/10 18:37)