東京五輪女子マラソン日本代表の鈴木亜由子選手(日本郵政G陸上部)。

 指導する高橋昌彦監督の育成プラン「2020TOKYO鈴木亜由子強化計画」の下で成長してきた鈴木選手。あらためて、彼女がどんな思いで東京五輪を目指してきたのかを振り返ると共に、想定外の物語の続きを連載企画でお送りする。

<6>「常識を覆す」とは?

 鹿児島県奄美群島の中央に位置する徳之島。2021年1月初旬、鹿児島県内でも雪が降るなど大寒波が日本列島を襲い、強く冷たい雨風が降り注いでいた。

 鈴木亜由子選手は、3月に出場予定の名古屋ウィメンズマラソン、8月に控えるオリンピックに向けて、静かに2021年のスタートを切った。

 2019年、真夏に開催された東京オリンピック代表選考会のMGCで、苦しみながらも2位に入り、日の丸を背負うことになった鈴木選手。

 その後の日常は、コロナ禍によって大きく変化。今は、日々自分の取り組むべき課題と向き合っていた。

鈴木選手:
「オリンピックの延期だったり、コロナ禍だったり、難しい状況の中でも日々やるべき事に集中して取り組めたところが、一番大きな成長でしたし、心身共にタフさがついた1年だったのかなと思っています」

 心身共に鍛えられた1年…。裏を返せば、それは“しゃがむ時期”だった。

 2020年の正月は、「東京五輪金メダル獲得」と絵馬に記し、厳しいマラソン練習を覚悟した。1月下旬から米国アルバカーキに乗り込み、ハードな走り込みを行う。

 しかし、順調に練習を積んでいた矢先だった。右太ももの裏側に肉離れを起こす。

鈴木選手:
「思ったより重傷で、完治には時間がかかると分かって、オリンピックから逆算していくと、ベストな状態で立てるか微妙なところだなって、正直分かった時は、ショックでした。またかという…」

 この時、思い出したのは、2016年リオ五輪での苦い経験。5000メートルと1万メートルの代表になったものの本番前の合宿で足を痛め、周囲の期待に応えられなかった。

鈴木選手:
「また力を出し切れない状態でスタートラインに立ってしまうのか、本番を迎えてしまうのかってところで、失望っていうか…。コロナの前に、自分自身の問題が出て、そこからですね、コロナが世界中で拡大して、日本でも広がってどうなるんだっていう…」

 東京オリンピックの1年延期。それは「怪我を治す時間」と心に言い聞かせた。

■ これまでの強化は“走り込み”…新たな練習方法で常識覆すような成果を

 日本郵政の高橋昌彦監督は、コロナ禍によって練習環境も一変し、不安を募らせた時期もあったと話す。しかし、自粛生活が意外にも新たな練習方法を生み出すきっかけとなる。

高橋監督:
「コロナのこともあって自身の運動不足解消に、6月末に自転車のロードレーサーを購入したんです」

 陸上の指導者になる以前、プロのトライアスリートだった高橋監督は、運動不足を補う為、24年ぶりに本格的な自転車にまたがった。その時、これは鈴木選手のトレーニングにもメリットがあると感じ、2020年、夏の北海道合宿からメニューに取り入れた。

高橋監督:
「ケガからの復帰後、慎重にトレーニングを再開するにあたり、患部に負担かけずに呼吸を追い込めたり、脚腰の筋肉を強化したり、そして全身持久力が養われますよね」

 多い日には一日合計130キロ、3時間以上も続けて自転車で北の大地を走った。鈴木選手が精力的に乗りこなす姿に手ごたえを感じた高橋監督。やがて、それまで「常識」と考えていた練習方法を見直すきっかけへとつながった。

 監督のパソコンにあるファイル「2020TOKYO鈴木亜由子強化計画」。

 2014年の入社1年目から、その年の目標やテーマが記されている。

 2020年の「東京五輪メダル獲得」という目標は、2021年にスライドされていた。

 一方で2020年に立てた「メダルを取る覚悟を決め、メダルを取る為の練習を行う」というテーマは2021年「常識を覆す」。それは、いったい…。

高橋監督:
「これまで五輪で言えば、メダルを取った選手は高橋選手、野口選手、有森選手です。その選手達の練習というのは、とにかく沢山の距離を走りました。今まで日本国内で常識と言われているマラソン練習というのは、しっかり距離を走りこんで、脚を作って、というのが常識です。鈴木亜由子強化計画で言うと『メダルを取るための練習を行う』って中でも、徹底的に走り込む日本のオーソドックスな練習パターンが、当然私の頭の中にありました。もちろん今もそのやり方は一つの成功パターンだと思っています。しかし、これまで亜由子を見てきた中で、また昨年の故障からも亜由子がはたしてそういった日本の伝統的なマラソントレーニングがこなせるかどうか...。そう考えると正直、亜由子にとってのメダルを取る練習が思いつかなかった。じゃあ沢山走れない選手は本当にマラソンで成功出来ないのか?私自身自問自答する中で、ロードバイクのトレーニングを取り入れたクロストレーニングによって、走り込みによる故障のリスクを減らし、走り込みで不足するトレーニング量を補い、さらに越えて行くようなことも出来るのではないかと思った訳です。それは自身のトライアスロン選手としての経験からも実証済です。2021年は、今まで言われていたマラソントレーニングの常識を覆すようなやり方によって成果を出すっていうのがテーマになってくると思っています」

 野口みずき選手は、1か月で1400キロも走ったという。

 高橋監督は、鈴木選手のマラソン練習に関しても走り込みは基本と考えているが、コンディションなども本人と確認し練習メニューは慎重に選択する。

 取材に訪れた日も当初は40キロ走を行う予定だったが、天候や脚の状態から自転車に切り替えられた。

高橋監督:
「脚が疲れている中での練習っていうのも、30キロ以降ですね、脚が疲れてきてなかなか動かない中で、それでも動かしていかなきゃいけない状況っていうのは、マラソン選手の場合ある訳で」

 マラソンの30キロ以降を想定し、あえて疲れた状態で自転車に乗り、その状態でも脚を回転し続けられるのかがポイントだ。

鈴木選手: 
「効率よく回すことを意識する事で、ランニングフォームにもつながってくる部分が多いので、これから効果が出る事を期待してます」

中島トレーナー:
「自転車に乗り始めたら、筋肉の大きさがしっかりしたなと感じます」

■ 「清々しいレースがしたい…」2021年3月14日の名古屋ウィメンズが試金石に

 2度目のフルマラソン挑戦だった2019年のMGCでは終盤、足が止まりそうになり、30キロ以降の怖さを痛感した。

 自身3度目のフルマラソン挑戦となる2021年3月14日の名古屋ウィメンズマラソンは、自転車トレーニングの成果がレース終盤に試される舞台…。

高橋監督:
「すんなりと結果が出るかは分からないですし、必ず課題は出てくると思うんです。ある意味大きな挑戦になりますが、その課題を持って、東京五輪ではしっかりと準備し、良い状態でレースに臨ませたいと思っています。そういう意味では大事な名古屋になってきますね」

鈴木選手:
「持てる力を全て出せたレースが やっぱりしばらくできていないので、清々しいレースがしたいですね」

 暗闇の中、逆風にさらされても、積み重ねた努力が最良の朝を迎えると信じて…。鈴木亜由子選手は走り続ける。

※インタビュー部分は、追加取材で補足しています。

<7>へ続く

<1>高橋監督との出会い「マラソンは我慢スポーツ」
<2>絶対に、この舞台に再び立ちたい
<3>「俺は金メダルをとりたいんだ!」
<4>「心身の土台」とは
<5>計画通りには行かない