東日本大震災から11年が経ちました。宮城県女川町で被災した直後に、岐阜県高山市に移り住んだ男性がいます。この男性は、空き家を購入して“自前の避難所”を開設したり、講演会で自らの体験を語ったりと、“備える事の大切さ”を伝えています。

■女川町でそのまま生活することが困難に…家族で高山に移住してきた男性

 岐阜県高山市にある旅館の厨房で腕を振るうのは、宮城県女川町出身の末永賢治さん(65)。女川町ではレストランを経営していました。11年前の3月11日、東日本大震災の日は…。

【画像20枚で見る】東日本被災直後に飛騨へ移り住んだ男性 自前の避難所開設や講演通し伝える“備えの大切さ”

末永さん:
「海側を見たら、電信柱がゆっくり倒れるのが見えた。次の瞬間、空に向かって“ボーン”っと水煙が上がりました。とっさに口から『津波だ、逃げろ、山へ逃げろ!』という声が出ました。そこから走りました。後ろを振り向いて『早く!早く!』。そのとき、そこにいた方たちは津波に流されて姿がなくなりました。間に合わなかった」

 末永さんと家族は奇跡的に無事でしたが、多くの友人を失いました。人口1万人の小さな町・女川町は、死者・行方不明者はおよそ850人。建物の9割が損壊するなど、壊滅的な被害を受けました。

末永さん:
「その時に私の顔を見た、その顔を忘れることはできない。たぶん、一生忘れることはないと思っています」

レストランも自宅も津波に飲み込まれ、跡形もなく流されました。2人目の孫が生まれたばかりだった末永さんは、女川町で生活を続けることは難しいと判断。被災者を受け入れている高山市への移住を家族に提案しました。

妻のとし江さん(64):
「考えましたけどね…。でも、みんなで一緒に暮らせるのが一番いいと思いまして、ついてきました」

■飛騨の人々に恩返しがしたい…経験をもとに“災害に備える”大切さを伝える

 末永さん一家は、2011年3月末に高山へ移住。末永さんは地域の人たちと親交を深める中で、震災の体験を伝えていきたいと考えるようになりました。

末永さん:
「『大変やったな』『何かあったら声かけて』(と言ってもらえて)本当にありがたい。そういう方たちに防災の話をさせてもらって、ちょっとでもお返しができればと」

 2019年には防災士の資格を取り、飛騨の人々への“恩返し”として、仕事の傍ら講演会などを開いています。

末永さん(講演会で):
「津波が来ました。34.6mです」

 2022年3月1日に、末永さんは自身も働く旅館の従業員に向けて講演会を開きました。

末永さん(講演会で):
「ぜひ“備蓄”してください。家族が“避難する場所”を決めていてください。離れ離れになってしまうと、どこへ探しに行けばいいかわからなくなる」

末永さんが訴えたのは、“災害に備える”ことの大切さです。

末永さん(講演会で):
「私の話を聞いた以上は、次の災害が起きたときに皆さん、生き延びてください。そして、たくさんの人を助けてほしい。そういうことを思いながら、自分の命を守ることを考えてください」

講演を聞いた男性:
「事前の準備と知識が、実際に災害が発生した時に行動の選択肢を広げると再認識させられました」

講演を聞いた女性:
「(奥飛騨は)陸の孤島になってしまう。何の支援も受けられないことを想定して、備蓄は多めの方がいいと思いました」

■避難所で布団のありがたさを感じ…自らで開設した避難所に40組の布団を備蓄

 末永さんは自宅から車で30分ほどの場所に、あるものを準備していました。

末永さん:
「6年くらい前にここを購入して、ここを避難所にと」

末永さんは、飛騨市の空き家を購入。およそ300万円かけて“自前の避難所”を開設。

末永さん:
「東日本大震災を体験した時に、避難所が本当に大変な状態だった。南海トラフのことも騒がれているなかで、こういう場所があることによって、大変な思いをしなくて済むのかな」

 避難所には8つの部屋があるため、少なくとも8家族は受け入れが可能です。

末永さん:
「避難所で毛布1枚で寝起きしていたので、布団のありがたさをすごく感じていて、布団は貴重だと思って備蓄しています」

寄付で集めた40組の布団を用意。また、主食となる米は、5~6年保存できるモミや玄米として蓄えています。

■どこの家庭にもある食材で簡単に作れる…実際に避難所で配り喜ばれた非常食

 調理師である末永さんは、どこの家庭にもあり長期保存ができる食材で、簡単にできる非常食を作ってくれました。耐熱のポリ袋に、米100グラムと缶詰めのコーン、塩ひとつまみ、水を130cc入れて20分ゆでれば、コーンライスの完成です。

末永さん:
「こういう風に作ると、みんな同じものがいくわけです。不平等がなくなる。これは知っておくだけでいいかなと思って、皆さんにお伝えしています」

実際、東日本大震災のときには、避難所の人々に末永さんの作ったものが喜ばれたといいます。

末永さん:
「賞味期限が切れる前に食べる。食べたら新しいものを備蓄する、“ローリングストック”という言い方。そうして回していけば、常に棚には2~3か月分の食品が備蓄される」

 いざという時を多くの人と生き抜くために、経験と方法を伝え続け、その後のために備える。それが、東日本大震災を生き延びた者の役目だと末永さんは話します。

末永さん:
「(南海トラフ巨大地震は)必ず来ると言われているので、常に生活しながら不安に思うのではなく、生活している中で『いつきても備えてある』『私は大丈夫、そういう状態にしてある』という風にしてほしいと一番思います」

 震災の経験を伝え続ける末永さんは、今後自ら作った「避難所」で講演会を開くなど、防災に役立つように活用していきたいとしています。