2025年、日本記者クラブ賞の特別賞を受賞した三重テレビ放送の小川秀幸さんは、長年ハンセン病問題と向き合い、報道を続けてきた。小川さんが20年以上通い続ける岡山県の療養所を、ジャーナリストの大谷昭宏さんが訪れ、社会に残る差別と偏見の”いま”を取材した。

■故郷を追われ…社会から隔離された島

 ジャーナリストの大谷昭宏さんが向かったのは、岡山県の瀬戸内海に浮かぶ長島、ハンセン病にかかり、故郷を追われた人たちが暮らしている。

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大谷さんを出迎えた三重テレビの小川秀幸さん(59)は、20年以上ハンセン病問題の取材を続けている。ジャーナリストの道を志すきっかけの1つが、大谷さんとの”出会い”だったという。

小川さん:
「大学の時に大谷さんの講演を聞かせて頂いて、社会で不当に割を食ってる人がいると、そういう人が出ないようにしていくのが報道機関の役割だというのを聞いて、この仕事に憧れまして」

昔、この島には橋がなかった。1988年に邑久長島大橋が完成するまで、”社会から隔離された島”だった。

小川さん:
「別名、『人間回復の橋』って呼ばれてまして、ずっと船でしか行き来できない状況で、1988年に橋がかかりまして、この橋もですね、地元から橋をかけるのに反対が最初あった。それだけ差別が厳しいものであった」

2002年に放送されたドキュメンタリー「かけはし」で、小川さんは長島に強制隔離された三重県出身の人たちを取材した。

「かけはし」に登場する三重県出身の男性は、当時の取材にこんな言葉を残している。

『差別するのは人間だけ、差別は人間だけがするものだ』

小川さん:
「“国の役に立たない”とみなされた人たちは、療養所へ“患者狩り”といった形で送られていたということがあったんですね。食料も医療も行き渡らずに大勢の方が亡くなっていったと。三重県出身の方がこんなことおっしゃいました『差別するのは人間だけだ』と」

■母親すら『ばれたら困る』と…島に残るつらい歴史

「ハンセン病」は、らい菌によって神経や皮膚に障害が起こる感染症で、病気が悪化すると顔や手足が変形することがある。

『ハンセン病は“悪魔の病”』、『患者を見つけ出し、隔離しろ!』
昭和初期、愛知県を発端に「無らい県運動」が起きた。

1931年に「癩予防法」が制定され、国の政策としてハンセン病患者は療養所などに強制的に隔離された。入所者の結婚は許されたが、子孫を残さないように断種や堕胎が強制された。

1930年(昭和5年)、国立療養所の第一号となった「長島愛生園」が作られた。2025年時点で、入所者の平均年齢は89歳となっている。

三重県出身の中尾伸治さん(91)、小川さんは初めて島を訪れた23年前から取材を続けている。

大谷さん:
「断種手術は受けられた?」

中尾さん:
「受けました。パイプカットせんとね」

中尾さんは1948年(昭和23年)、14歳の時に島にやってきた。病気は完治したが、体の一部が変形する後遺症がある。

中尾さん:
「母親が亡くなる時に入院した。その時に電話くれた母親がね。見舞いに行くわってことになって、行こうとしたんだけど、母親が電話の向こうでしばらく黙っとって、『いいわ…』っていうんですよね。『なんで?』って聞き返したら、またしばらく黙っとって『お前顔治ったか?手治ったか?』て言うの、『なんで?』っていったら、『ばれたら困る』ってというのが最後の言葉で」

長島愛生園に入所した当時、およそ1700人の入所者がいたが、現在はわずか67人。中尾さんは今、“語り部”として、自分の体験を伝え続けている。

大谷さん:
「テレビカメラが入って取材をすると、みなさん抵抗があるのでは?」

中尾さん:
「自分を出さないと伝わらないと思ったんで。表から映してもらっている。そんな気持ちでやってます」

長年、社会から隔離されていた島には、学校や病院、スーパーから火葬場まで、島の中に生活の全てがある。

昔の「収容所」が、今も残っている。

小川さん:
「入所者の方は療養所に入るとまずここにしばらく入れられたようで、クレゾール消毒の風呂に入れられたり、持って来たものを一旦没収されたりとか」

逃亡を防ぐため、現金は没収され、代わりの通貨として「園内通用票」が配られた。入所者には過酷な強制労働が義務付けられ、人権は無視された。

故郷を追われ、つらい暮らしを強いられ、崖から飛び降り、命を絶つ人もいた。

■過ちを繰り返さないために…報道が果たす役割

 1940年代には、ハンセン病の治療薬が開発され、ふるさとへの“里帰り事業”も始まった。「らい予防法」は廃止され、2001年には国が隔離政策は誤りだったと認め、謝罪した。

しかし、ハンセン病の問題はまだ終わっていない。今も差別と偏見が続いている。

三重県出身の千恵さん(仮名・89歳)、小川さんとは20年来の付き合いになる。園内で4つ年上の男性と結婚したが、断種により子供はいない。

小川さん:
「昔は三重に里帰り事業でよく帰ってくれましたけどね」

千恵さん(仮名):
「三重県帰りましたけどね、いまは帰ろうとしない。『もう帰ってくるな』言うの、(兄の)お嫁さんが『電話もかけるな』とか言ってね」

小川さん:
「お兄さんがお亡くなりになったときは、つらかったでしょうね」

千恵さん:
「『帰ってきたら困る』と、兄嫁さんがいうんですよ。『病気がうつるから』と言ったのかな。変なこと言うなと」

小川さん:
「葬式の時も帰るなと?」

千恵さん:
「ぜんぜん帰れなかったです」

小川さん:
「社会の差別というのは厳しいのが残っていると思います」

大谷さん:
「小川さんの仕事はやり終えてない」

小川さん:
「まだまだです。もうちょっと頑張っていきます」

小川さんはこれまで12本のドキュメンタリー番組を制作し、三重県出身の人たちの人生を追い続けてきた。世界ハンセン病の日の2026年1月25日には、特別番組「さっちゃんは、ね ~”ハンセン病”のいま~」が三重テレビで放送される。

なぜ、今も取材を続けるのか。

小川さん:
「こちらに来ると入所者のみなさんが非常に温かく私らを包んでくれるんですね、入所する時は大変悲しい思いをされて、入ってからも療養所の中の作業とか苦労されたり、後遺症に苦しんだりとか、差別に苦しんだりとか、つらい思いをされている皆さんだからこそ、強さというか、温かさというか、心の広さっていうものを感じましたので」

丘の上にある納骨堂。小川さんが取材で出会った人たちも、ここに眠っている。

小川さん:
「三重県出身の方の話なんですけれども『田舎の墓には入りたくない、ここでいいんだ』とおっしゃるんですけど、何でかと聞くと『田舎の墓入ったら、また墓の中で逃げ隠れせなあかん』とおっしゃって、本当に悲しいなと思った。それが現実とも感じました」

大谷さん:
「差別は仏さんになっても里帰りが出来ない」

2025年11月、長島愛生園にハンセン病の歴史を伝える「でんしょう愛生館」がオープンした。

入所者40人の証言を公開し、国の誤った隔離政策や差別と偏見の歴史を後世に伝えていく。

小川さん:
「根強い差別はまだまだあると思うので、心の橋が架かったかというと道半ばかなという感じがしています。一回の政策の過ち、そして市民の無関心ですね、そういったものがたくさんの方を苦しめてしまう、一回しかない人生を悲しいものにしてしまうということを、非常に強く感じましたので、報道活動は重要だなと感じました」

瀬戸内海の美しい夕暮れ…私たちは、悲しい過去を伝え続けなければならない。“未来”に同じ過ちを繰り返さないために。

2025年12月5日放送