地元ではないからできること…『ヨソモノ』が支えるフクシマの復興 地域社会の再生目指し被災者に寄り添う


 東日本大震災から15年、原発事故で大きな被害を受けた福島県は復興がまだまだ遅れているのが現状です。そんな中、被災者に寄り添いながら奮闘する「ヨソモノ」たちが復興への大きな力になっています。地元でないからできることもあるという彼らの姿に密着しました。

■震災から15年 変わり果てた「ふるさと」

 福島第一原発からおよそ10キロ離れた福島県浪江町の中心部、5年前に道の駅がオープンし、連日、多くの人でにぎわっています。

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2011年3月11日、高さ13メートルの巨大津波に襲われ、放射性物質を拡散させた福島第一原発。その数キロ北にある浪江町も、原発事故ですべての住民、2万1500人あまりが避難しました。

15年が経ったいまも、一部の地域が「帰還困難区域」に指定されていて、住民の数は、移住者も含め2420人にしか戻っていません。

原発から北西へ30キロほど離れた浪江町の津島地区は、居住することが認められているにも関わらず、人影がなく、老朽化した建物が目立ちます。

地区のほとんどが山林で除染が進んでおらず、人が住めるようになったエリアは、全体のわずか1.6%、1400人あまりいた住民は19人になっています。

■「心の復興拠点に」放射線の専門家 老舗旅館を復活へ

 原発事故が深い影を落とし続けるフクシマ。その復興を支える「ヨソモノ」と出会いました。浪江町の津島地区にたたずむ、松本屋旅館を復活させようとしている木村真三さん(58)です。

元々旅籠として建てられた松本屋旅館は、全盛期の1960年ごろには年間3000人が宿泊した老舗旅館ですが、原発事故から15年が経っても“臨時休業”の状態が続いています。

木村さんは130年の歴史を今に伝える旅館を、人々が集まれる“集いの場所”にして、隣接する建物や蔵は改築し、宿泊施設やレストランにしようと計画しています。

木村真三さん:
「ここは全部、ふすまでふさがれているだけでしょ。ここを全部取り払うと、ここで祝言(結婚式)ができるんですよ。僕が言っているのは、ここはランドマークとして、ランドマークとして残そうと」

実は木村さん、この旅館のオーナーではありません。木村さんは獨協医科大学の准教授で、ウクライナのチョルノービリ原発の事故でも現地調査をした放射線衛生学の専門家です。

原発事故の3日後から福島に入り、放射線量を調査し、今では郡山市に研究施設も備えています。

木村さん:
Qなぜ、ここまできれいな状態で保存できた?
「ここは“今野さん”が、本当にどんなことがあっても月1回は帰って掃除したんですって」

「いつか、旅館を再開したい」津島地区で放射線量を測定するなかで、15年間、建物を残し続けてきた旅館の4代目・今野秀則さん(78)と出会い、その思いを引き継ぎました。

木村さん:
「僕自身は地域の分断、人と人との分断、これが最も大きな出来事だと思います。僕は人と人とのつながりで、僕を生かしてくださったのが、この地域の人だと思ったから」

松本屋旅館の4代目も、「ヨソモノ」の力に期待しています。

今野秀則さん(78):
「(原発事故によって)地域社会がなくなることに対する痛切な思いというのが、私たちはほとんどのみなさんが持っている。地域住民としての誇りとか愛着とか、地区外の人たちが地域社会の復興再生のために努力してくれるというのは、本当にありがたい限りです」

木村さん:
「旅館含めて彼岸で帰ってくる人を迎え入れたいのが僕の夢です。みんなが遠くに避難した人たちが『帰ってきてよかったね』と言ってもらえる、そういう日が来るのを楽しみにしています。“心の復興拠点”と思っています」

■求められて移住…「地元ではない」から“できること”

 浪江町との境に位置する川俣町の山木屋地区。震災の1年後、私たちはフクシマを支える“ヨソモノ”と出会いました。愛知県・日進市の職員で町に派遣されていた、宮地勝志さん(当時53)です。

宮地さん(2013年):
「農地の表土をはいで、除染の廃棄物を大きな土のう袋に入れて、仮の仮に置いてあるんです」

宮地さんは川俣町役場の原子力災害対策課で除染活動などを担当、住宅を一軒ずつ回って、除染の進め方を説明し、住民の思いを受け止め続けてきました。

宮地さん(2013年):
「皆さんの思いを私たちがちゃんと聞く、それが丁寧な除染なのかな」

もともとの派遣期間は、1年間の予定でした。

住民:「1年になる?」
宮地さん:「3月31日で1年になります」
住民:「1周年記念だ。この人は4月1日になったら帰らないといけない」
宮地さん:「帰りたくないんだけどね」

1200人が避難を余儀なくされた山木屋で、宮地さんは人々に寄り添い続けました。

「川俣町を取り戻すために、優れた力を発揮してほしい」という住民からの強い要望を受け、日進市から移住、川俣町の職員となり、定年まで勤めました。今は地域の田んぼにスケートリンクを作る活動などをしています。

宮地さん:
「(原子力対策は)やっぱり目に見えないものを片付けていく、きれいにしていく、物理的に目に見えないものだけではなくて、人の心の中の目に見えないものなので、ここをずいぶん傷つけてしまってますので、そこをどんなことが行政でやっていけるのか、悩みながらやらせてもらった」

目に見えない“住民の心”と向き合った日々。自分が“ヨソモノ”だったことが、プラスに働いた場面もあったといいます。

宮地さん:
「70年近く前に合併したのが山木屋、それが避難区域になってしまいましたので」

現在の川俣町は1955年に近隣の村と合併してできましたが、当時、山木屋だけが別の郡にある村で、生活圏なども異なっていました。

そして、川俣町の中で、原則立ち入りが制限された「計画的避難区域」になったのも山木屋だけでした。川俣町の職員たちは、町内すべてが被災地であるなかで、山木屋にばかり、多くの力を注ぐことに葛藤していたといいます。

宮地さん:
「役場の職員ほとんどがこの地区(山木屋)の人ではない。どういうふうに対応したらいいのか、どういうふうに心を寄せたらいいのかは相当みんな苦しんでいました。元からいた役場の職員が手を出すことは、残念ながらかなり少ない。ちょっと距離をとりたかった。自分たちも被災者なんだと。彼らだけのためにやるのは抵抗感があったんでしょうね」

“ヨソモノ”が支えるフクシマの復興。

川俣町に移住し“ヨソモノ”ではなくなった宮地さんは現在66歳、移住者が増えつつあることに希望を抱きながらも、元の町には戻らない、復興の現実といまも向き合っています。

宮地さん:
「田舎ってやはり人と土地とのつながりがしっかりありますので、そうそう簡単によそ者が入りづらい。俺たちの土地で、違うことをやっている。そこに素直に喜びを表しにくい。“復興”という言葉ではない、何かもう少しいい表現があったらいいんじゃないかなと思うんですよね」

2026年3月20日放送

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