沖縄が日本に復帰してから50年が経ちました。沖縄では、本土に復帰した1972年に生まれた人たちを「復帰っ子」と呼んでいます。その復帰っ子たちは節目の年に、戦争を生きた人たちの記憶を集め映画を製作するなど、過去と未来をつなぐための活動を始めました。

■“沖縄の過去を未来につなぐ”…本土復帰の年に生まれた「復帰っ子」と呼ばれる人たち

 ゴールデンウィーク直前の4月27日。那覇の国際通りには、シャッターが下りた店も多く、開いている店にも客の姿はありません。

沖縄ではコロナの感染者数が高止まりの状態で、本土復帰50年の節目で企画されたイベントも中止が相次いでいます。

【画像20枚で見る】沖縄本土復帰50年「伊江島で2人に1人亡くなったとは…」72年生まれ“復帰っ子”がつなぐ過去と未来

 映像制作会社を経営する比嘉盛也(ひがせいや)さん(50)は、本土復帰の年である1972年生まれで「復帰っ子」と呼ばれて生きてきました。

比嘉さん:
「小さい頃から“復帰っ子”と呼ばれて、ことあるごとに新聞に載ったりして注目される。僕らが復帰っ子を意識するのはだいぶ大人になってから」

比嘉さんは、50周年の節目に同級生を集めて「結(ゆい)515」を立ち上げました。

この団体には、お笑いコンビ「ガレッジセール」の川田広樹さん(49)も参加し、“沖縄の過去を未来につなぐ”をコンセプトに、伝統文化を体験できるイベントの開催や母子家庭へ弁当を配るなど、未来に向けた活動を行っています。

メンバーは約300人にもなりました。

■復帰っ子たちが“戦争を生きた人たち”の映画を製作…じいちゃんが話してくれた戦争の記憶

 そして比嘉さんは、節目の年に映画製作のプロジェクトを立ち上げました。それには理由がありました。

比嘉さん:
「僕ら復帰の年に生まれたのに、復帰のことを何も知らない…。50歳にもなって、復帰前と後で何がどう変わりましたか。おじいちゃんたちの話をちゃんと聞きたい、資料として残した方がいいんじゃないか」

 現在製作中の映画の舞台は、沖縄の北西部に位置する伊江島(いえじま)です。

伊江島で戦争を経験した内間亀吉(84)さん(映画内):
「『出てこい出てこい』と、毒ガスを中に入れられて…」

比嘉さんたちは戦争を生きた人たちのもとに通い、記憶を集めました。

内間さん(映画内):
「男世帯には手りゅう弾が一個ずつ、軍から配られている。この(手りゅう弾)3個で自決の話が出たみたい。だけど、家族25人が3個で死ねるのかと。もし生き残ったら、生き残ったものはどうするか?ということになって取りやめたみたい…」

伊江島は、今は透き通った美しい海が広がる人気の観光地です。

比嘉さん:
「皆さん、伊江島にきれいな海やきれいな砂を求めていくんですけど、沖縄の方でもここで6日(間)で2人に1人が亡くなった島だとは誰も知らないと思います」

沖縄県民ですら、壮絶な過去を知らない人は少なくありません。

 伊江島には、かつて“東洋一”といわれた旧日本陸軍の飛行場があり、軍事拠点となっていました。そのため、アメリカから激しい空爆と戦艦からの砲撃を受け、島民の2人に1人が犠牲に。

伊江島で戦争を経験した内間亀吉(84)さんは、家族以外に戦争のことを話したのは初めてだったといいます。

比嘉さん:
「初めはちょっと怒られたけど…」

内間さん:
「率直に言うと、変なことしてくれるねと。いらんことをしてくれるねと。どっちかというと、僕らは戦争のこと話したくないんですよ、正直な話」

比嘉さん:
「ありがたいですよ、亀吉さん。今聞かないと、僕らもう、話聞くチャンスもないので」

内間さん:
「僕らが死ぬと、僕らが話していることは誰もわからない。だから今のうちにこういう人(比嘉さん)たちが、(映画の)収録してくれたのは、後世に残るだろうと」

 県民の4分の1が亡くなった沖縄戦。生き残った人たちがいたから、比嘉さんたちは生まれました。

比嘉さん:
「本当にあの時助かってラッキーと思わなかったのに、『今は生きていてよかった』と。『あの時、逃げてよかったよ』とじいちゃんが言うんですよ。あの時は、“助かった”というより“逃げた”というイメージが強かったらしくて。じいちゃんが言ったのは『逃げるは生きるだよ』と。やっぱり言えないのは辛かっただろうし、こういう話もちゃんと聞いて、ちゃんと伝えていかないと」

「逃げるは生きる」。生きることで繋がった今の沖縄。

■基地問題に本土との経済格差も…基地負担がのしかかり戦後の復興も遅れた沖縄

 1952年に「サンフランシスコ平和条約」が発効され日本が主権を回復しても、沖縄だけは切り離されアメリカの統治下におかれました。本土への移動にもパスポートが必須に。ドルでの買い物を強いられ、車も右車線、左ハンドルでした。

子供が車に轢かれて死亡してもアメリカ兵は無罪になる。そんなことがまかり通る時代を、沖縄は20年もの間、過ごしてきました。

比嘉さん:
「ずっと奥に見えている平たい芝生が普天間基地。見るとわかるんですけど、日本人は密集した中に住んでいて、基地の方は広々と…。これが沖縄の現状。オスプレイが民間の建物の真上飛んでいますよ」

今も国内の米軍基地の7割は沖縄に。基地負担がのしかかり戦後の復興も遅れたため、観光以外の産業が育っていないのが現状です。

比嘉さん:
「沖縄って復帰から50年たったんですが、全国一低所得な県。貧困率もすごく高くて、基地もある、失業も、離婚もすごい…。こんな問題だらけの島。ただ、そうはいっても、誰一人として自分は沖縄に生まれない方がよかったという人は1人もいない。こんな大変なのに、“うちなんちゅ(沖縄県民)”でよかったと言うんですよ。それは不思議なところ…」

■「50歳になって知る機会を与えてもらった」…復帰っ子がつなぐ沖縄の過去と未来

 4月28日、沖縄の最北端の村・国頭村(くにがみそん)で、祖国復帰50周年の記念イベントが開かれました。

この4月28日は、サンフランシスコ平和条約が発効され、日本が主権を回復した日。一方、沖縄にとっては本土と切り離された「屈辱の日」です。

沖縄最北端の村と、そのすぐ北にある与論島のわずか30キロの海には、見えない国境がありました。本土に復帰するまでの間、互いにかがり火をたき、1つの国であることを確かめ合っていたといいます。

比嘉さん:
「僕は復帰っ子と言われていますけど、全然復帰のこと知らなかったし、50歳にもなってやっと知る機会を皆さんに与えてもらった。これを後世に伝える、つなげていくために、これからまた頑張りたい。たくさんの人にこれも伝えたい。これこそ希望の火」

分断の歴史を経て、本土に復帰してから50年。「復帰っ子」が過去と未来をつなぐため、歩み出しました。