昭和生まれでは初、そして愛知県生まれでは戦後初の総理大臣だった海部俊樹さんが亡くなりました。91歳でした。

 第76代の総理大臣・海部俊樹さんが1月9日、肺炎で亡くなっていたことがわかりました。91歳でした。

 1989年、昭和生まれで初の内閣総理大臣に選ばれた海部俊樹さん。名古屋市出身で、議員秘書を経て1960年に初当選。40代で三木内閣の官房副長官に抜擢され、頭角を現しました。

 トレードマークは水玉模様のネクタイ。そして1989年。リクルート事件で政治不信が高まる中、クリーンさをかわれて自民党トップに登り詰めました。

 平和を強く訴える中、ペルシャ湾で湾岸戦争が勃発。アメリカから協力を強く求められるギリギリの状況の時、秘書をしていた熊田衆議院議員は…。

熊田衆院議員:
「緊張感をもって、政府として様々な日々追われる対応。ただですね、公邸におられる時って、そういうものは全て出されなかった方なんですよ。常に温和に過ごされておられて。そこも先生の気配りなんだろうな」

 そして海部総理は、自衛隊として初めて本格的にペルシャ湾に掃海艇を送ることを決断しました。

海部総理(当時):
「自ら成し得る努力をせず、これを怠れば、国際的孤立化への道を歩むことになります」

 一方で国内では、看板に掲げていた政治改革が、自民党内の抵抗にあい頓挫します。

海部総理(当時):
「私は政治改革というものに不退転の決意で取り組み、それがこういう結末を得ましたので」

 2年3カ月で自ら総理の座を降りました。

 その後も、新進党の初代党首などをつとめました。同じ新進党で衆議院議員だった名古屋市の河村たかし市長は…。

河村名古屋市長:
「本当に優しい人だったですよ。よう事務所も行きました、自宅へも行きました。新進党が解党したときに海部さんは…まあ『きゃーふさん』って言ってましたけど、きゃーふさんは『わしのとこ(自民党)に来い』と言っておられた」

 2009年の衆議院選挙で落選、政界を引退しました。

長坂衆院議員:
「自分は金でもダイヤモンドでも銀でもないけれども、銅か鉛かもしれなけど、それでもいいんだと。自分はメッキじゃないんだと。銅なら銅なりに、どれだけ削ったってメッキではない。しっかりと国民の皆さんに納得していただけるような真っ当な政治をやっていくんだと、表向きに言うんじゃなくて、僕たちにはおっしゃってましたね。お疲れ様でしたということと、ありがとうございました」

 そして、最後の支援者へのお礼の会で述べたことは…。

海部元首相(2010年1月):
「大変重くて大きな責任をいただいたなということを、ずっとひとえに思いながら続けてまいりました。本当に長い間どうもありがとうございました」