東日本大震災から11年が経ちました。震災の翌年の2012年に、福島県川俣町に移住した愛知県日進市の元職員の男性がいます。この男性は、人生最後の仕事として、「未来の福島のために」とイタリア野菜を育てるなど、町の再生に取り組んでいます。

■目には見えない放射線から町を守りたい…福島県川俣町に移住した愛知県日進市の元職員の男性

 福島第一原発から約40キロ離れた川俣町山木屋地区。原発事故の避難指示が解除されてから5年が経ちました。愛知県日進市の元職員・宮地勝志さん(62)は、震災の翌年、2012年に日進市から川俣町に派遣され、2014年に川俣町役場に転職しました。

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原子力災害対策課の職員として住民の声に耳を傾けながら、目に見えない放射線の被害からこの町を守ってきました。

宮地さん(2012年):
「(放射線には)何も色もついていないです。だから皆さんがわかりにくい、不安を抱く…」

宮地さんは、2020年に町役場を定年退職しましたが、この町の人や風景に惹かれ今もここで暮らしています。

■移り住んだ都市部の生活に慣れ…避難指示が解除されても住民が戻らない山木屋地区

 山木屋地区では、震災前1252人いた住民のうち、ふるさとに戻ったのはわずか313人(2022年3月1日時点)。高齢化が急速に進み、この10年で集落を離れた人を含め217人が亡くなりました。

 山木屋地区の元自治会長・広野太さん(72)は、震災前は息子夫婦や孫たちと6人で暮らしていましたが、原発事故による避難で、一家はバラバラとなり自宅を取り壊しました。避難指示の解除後に家を再建し、“また、家族で一緒に生活したい”と願っていましたが…。

広野太さん:
「息子たちに“負の遺産”を残してもしょうがないかなと…」

家族からの反対もあり、再建は白紙に。今も福島市内に住み、山木屋に戻れないままです。

宮地さん:
「(ふるさとに戻らない)最大のネック、避難した先が都市部ですので、そこと比べてしまうとやはり(山木屋は)不便さを感じるんでしょう」

 震災から11年が経ち、多くの人が移り住んだ場所の生活に慣れ、戻ってこないのが現状です。

■人々が息づく里山を取り戻したい…山木屋の再生に向け約20種類のイタリア野菜を育てる

 町に人が戻らない中、宮地さんは山木屋の再生に向けて新たな一歩を踏みだしています。約7000平方メートルの畑を使い、「チコリ」やネギの一種の「リーキ」など約20種類のイタリア野菜を育て、2022年中の出荷を目指します。

震災前は、米などの作物を栽培していた山木屋地区ですが、原発事故で田畑には数えきれないほどの除染廃棄物の黒い袋が置かれ、農業の営みは止まってしまいました。

宮地さん:
「(除染作業で)肥沃(ひよく)な土がなくなってしまいましたから…」

これまで、放射線で汚染された土地の除染にあたってきた宮地さんだからこそ、人生最後の仕事として人々が息づく里山を取り戻したいと思っています。

■次の世代に何かを残せるように種をまく…農業で町の再生に取り組む人たち

 宮地さんには、農業で一緒にこの町の再生に取り組む仲間がいます。川俣町出身の遠藤典子さん(38)は、大学進学で町を離れたものの6年前に結婚を機に戻り、山木屋地区でライ麦などを作っています。

ライ麦畑は、もともとは別の農家が育てていましたが、家畜のエサ以外で販路を見出せず諦めようとしたところを、2021年に遠藤さんが引き継ぎました。

遠藤さん:
「震災直後って、ちょっと山木屋に抵抗あったんですけど、畑仕事の時に線量計つけるようにしたんですよ、去年から。でも、線量全然増えなくてびっくりしました。空気もおいしいし、こんな気持ちいい場所が川俣の中にあったんだって、震災後に知った」

 川俣町の中でも、山あいで“線量が高かった山木屋地区”…。

宮地さん:
「遠藤さん自身もそうだし、川俣町内のこの辺に住んでいる人もだけど、『あの事故がなければ山木屋に目は向かなかった』『足を踏み入れることもなかった』っていう人が多い」

 遠藤さんは、育てたライ麦を使ったパンを福島市内で販売しました。

遠藤さん:
「もうダメかもしれないって思っても、可能性は見いだせるから、そういう気持ちを捨てない精神だったり、パワーを伝えられたら」

宮地さん:
「次の人たちが、この福島なり山木屋を、夢が持てるようなところとして…。そういう“橋渡し”みたいなことが、きっと自分のやりたいことなんでしょうね」

「次の世代に何かを残せるように種をまく」、それが宮地さんの最後の仕事です。