「原子爆弾」が広島に投下されてから76年が経ちました。広島から岐阜へ移り住んだ後に、風評被害を恐れて被爆者であることを隠し続けた78歳の女性は、戦争の無い平和な世界を願い、コロナ禍の夏も語り部を続けています。

■姉が私を引きずって押入れの中に隠してくれた…原爆投下で被爆した女性

 8月6日、広島市南観音町。

西田詩津子さん:
「なんかジーンとくるものがあります。76年過ぎて初めてこの地に立ちました」

【画像20枚で見る】原爆投下後に広島から岐阜へ移住した女性 福島の事故を機に語り部に

 岐阜県大垣市在住の西田詩津子さん(78)は、今は住宅が立ち並ぶこの場所で、2歳の時に被爆しました。

 1945年8月6日。アメリカ軍が投下した「原子爆弾」により、広島市は一瞬で壊滅的な被害を受けました。

爆心地から1.5キロ以内にいた50パーセント以上の人が死亡し、その年だけで14万人が亡くなりました。西田さんは、爆心地から3.2キロの住宅で姉と被爆。

西田さん:
「2つ上の姉が私を引きずって、抱っこしながら押入れの中に隠してくれた。私を抱きながら震えていたそうですが、畳の上は全部ガラスが…。姉は右半分(にガラス片が刺さった)と言っていましたかね…。私はケガしてないから、姉に助けられたと思っています」

■福島の事故を機に語り部に…岐阜へ移住するも風評被害恐れ被爆者であることを隠し続ける

 西田さん姉妹は、その後集団就職で岐阜県大垣市へ移住しました。

姉の美津子さん(79)は、長年にわたり放射線障害に悩まされ、副甲状腺がんや子宮筋腫などを患い、30年前から2日に1度の人工透析が必要な体に…。

姉の美津子さん:
「(袖をまくりながら)見たらびっくりする。もう人間じゃない。自分でもあんまり見ないもの。怖くって」

 美津子さんの腕の血管は、長年の人工透析の影響で太くなり盛り上がっていました。

西田さん:
「ごめんね、私を助けたばっかしにこういうふうになって。全部病気をもらっている、姉が」

 姉妹は、岐阜に来てから風評被害を恐れ、結婚後も被爆者であることを家族にも隠し続けました。

西田さん:
「結婚する時も主人にも言わないし、(義理の)お父さんお母さん、言ったことないです。長男が(昭和)41年に生まれたんですけど、生まれるまで本当に心配で心配でね…」

 2011年の福島の原発事故。姉妹は被ばくの恐怖に苦しむ被災者が自らの姿と重り、その年から被ばく体験を語り始めました。

 毎年続けていた姉妹での語り部ですが、今年は西田さん1人です。姉の美津子さんが体調を崩し、外出できなくなったためです。それでも、伝え続けます。

■黒いものがたくさん飛んで降りてきて…原爆投下直後に「黒い雨」を浴びた男性

 西田さんは毎年、広島の平和記念式典に出席してきました。しかし今年は1割以下に参列者が制限されたため、会場外から手を合わせました。

 今回はもう1つ広島を訪れた目的がありました。爆心地から18.7キロの広島市湯来町に住む本毛稔さん(81)さんです。

西田さん:
「同じ被爆者として良かったですねって…。それにしても長かったですね」

本毛さん:
「何とかしなきゃいけないと、私も一生懸命やってきてるもんで」

 本毛さんは、5歳の時に原爆投下直後に降った放射性物質を含む「黒い雨」を浴びました。

本毛さん:
「黒いものがたくさん飛んで下に舞い降りてきて、私と弟が面白半分で拾っていたら、おじさんが『広島で何かあったんだろう。毒かもしれんで触れるな』と言われて…」

 太陽が見えなくなる程に空が真っ暗になり、本毛さんは降り出した黒い雨を浴びました。

一緒にいた2歳の弟はお腹がパンパンに腫れ、その年の9月に肝硬変で亡くなりました。本毛さんも24歳まで原因不明の鼻血に悩まされ、白内障の手術を3回経験。今も腰椎が変形する病気に苦しんでいます。

■住民84人を被爆者と国が認定…黒い雨訴訟原告に交付された被爆者健康手帳

 国は、雨が降った爆心地に近い範囲を「大雨地域」、その周囲を「小雨地域」と定義。援護の対象は「大雨地域」のみとしていました。本毛さんの家は、援護の対象外でした。

本毛さん:
「この川で線引きされています。こちらが『大雨地域』。こちら側が『小雨地域』。私のところへは一切、聞き取り調査をされていない。それなのに線引きされているから納得いかない」

 本毛さんら住民84人は、2015年に提訴。被爆者と認めるよう国を相手に訴えました。そして今年7月…。

(リポート)
「全面勝訴です。控訴が棄却されました。原告団からは喜びの声が上がっています」

 控訴審でも、本毛さんら住民84人を被爆者と認定。援護の対象と認められ、国も上告をしないことを決定しました。

西田さん:
「(本毛さんの被爆者健康手帳を見て)やっぱり新しいピンク色。(自分の手帳と比べ)これだけの色の違いがありますよ。同じ色でもらえたら良かったですのにね。こんなピンク色でしたけど、こういう風になりました」

本毛さん:
「母と弟は亡くなっていますので、帰って仏壇に供えてね、『裁判で勝って国も認めてくれたよ』と…」

 しかし、裁判中に19人の原告が死亡。遅すぎる認定でした。

西田さん:
「(黒い雨は)また一つ、語り部の中にプラスさせていきますので、お互いに頑張っていきましょう」

■「戦争のない平和な世界を…」被爆者の苦しみや思いをこれからも語り部として伝えていく

 8月11日に岐阜県垂井町で開催されていた「原爆と人間展」。西田さんは、姉や本毛さんの苦しみや思いを胸に、被爆者の1人として伝えていきます。

西田さん:
「この雨を被った人は、直接は(皮膚が)ただれるとかは無いんだけども…。水飲んじゃったから体の中でそういう病気のもと、健康じゃなくなっていっちゃったのね」

「戦争のない平和な世界を…」。西田さんは、次の世代に語り伝え続けます。