愛媛県伊方町に、戦後21年の時に建てられた石碑があります。この石碑には、この地から特別攻撃隊としてハワイの真珠湾へと向かった10人のうち、亡くなった9人の若者の名が刻まれています。残りの1人、生き残り捕虜となった男性は、その存在を消されました。しかし、日米開戦から80年の節目を迎えた2021年、この碑の横に新たに作られた石碑には10人の写真がありました。80年経ってようやく男性は、仲間と再会することができました。

■出撃した10人のうち9人は亡くなり『軍神』に…唯一捕虜となりその存在を消された男性

 美しい三机湾に面した愛媛県伊方町で、12月8日に除幕式が開かれました。80年前にこの地からハワイの真珠湾へと向かった特別攻撃隊10人の若者を伝える碑です。その中に日本人で初めて捕虜となり、その存在を消された海軍少尉がいます。

【画像20枚で見る】真珠湾攻撃に参加し捕虜となり”存在を消された”少尉 出撃から80年目の“再会”

 1941年12月8日、日本軍がアメリカ軍に対して奇襲を仕掛けた「真珠湾攻撃」。海軍兵学校の制服に身を包み、凛々しい表情を見せるのは、この攻撃に参加した酒巻和男さん(当時23歳)です。甲標的と呼ばれる「特殊潜航艇」に乗り込みました。

2人乗りで、アメリカ軍の戦艦を襲撃するための魚雷が積まれていました。乗組員10人で出撃するも、攻撃を受けるなど9人が死亡。酒巻さんは、潜航艇が故障し座礁。岸に打ち上げられているところを捕まり、日本人の”捕虜第一号”となりました。

 愛知県豊田市に住む酒巻さんの長男・潔さん(72)。

酒巻潔さん:
「うちの父だけが捕虜になったんですね。亡くなられた9人は、戦争の士気を高めるうえで『軍神』になったんです」

 真珠湾攻撃から3か月…。戦死した9人は戦意高揚のため「軍神」として称えられましたが、当時の新聞には酒巻さんの名前はどこにもありませんでした。

潔さん:
「(父は)消された状態。10人で映っている写真も1人カットされて、9人になって新聞報道されたり」

「捕虜として捕まることは“恥”」とされた時代。酒巻さんの存在は、隠されました。

■「捕虜となったら命を絶て」と言われた時代に「生きる」決意をさせた戦友の言葉

 捕虜となった酒巻さんは、アメリカ兵を前に何度も自殺を図りました。酒巻さんの戦後の手記にこう綴られています。

「私は日本士官である。不運なる酒巻は捕虜となって立派に死んだ。これだけ日本軍に通知してくれ」

「殺してください」。酒巻さんは、アメリカ兵に訴えました。しかし徐々に酒巻さんの「死への考え」が、変わっていきます。きっかけはアメリカの新聞。不利な戦況含め、自由に報じていたことに驚いたのです。

さらに、一緒に出撃して戦死した、岩佐直治中佐(当時26歳)の言葉が脳裏をよぎりました。岩佐中佐の50回忌の慰霊祭で、酒巻さんはこう語っています。

酒巻和男さん(1990年当時):
「真珠湾に行く前に、岩佐さんからも度々言われましたけど、『人間はできるだけ生きて、生きて、生き抜いて、そして、国のために尽くして、人のために尽くしていく』ということを強調されました。まさに姿なき姿、声なき声が私を呼び起こしてくれました」

「捕虜になるくらいなら命を絶て」と言われた時代に、「生きろ」と伝えられていました。酒巻さんは生き残って、日本のために努めようと決意しました。

■「父の生き様は現代のヒントにもなる」…「死」から「生」へと転向した父の手記を復刻

 終戦の翌年に、酒巻さんはアメリカから帰国。

酒巻さんの長男・潔さん:
「『立派に戦ってご苦労さん』が7割くらい。3割ぐらいが、『死んでこそお国のためにお役に立った』と、刃物を送ってきて『割腹して死ね』だとか(と聞いている)」

 マスコミや世間に対し、戦争のことについて口を閉ざし続けました。その後、酒巻さんはトヨタ自動車に就職し、ブラジルトヨタの社長にまでのぼりつめました。日本の戦後復興に力を尽くし、1999年に81歳で亡くなりました。

潔さん:
「(私には)戦争のことは一切語りませんし、普通の親父であって、私の目には『マージャン好きな親父だな』と。私が中学生くらいの時に、自分の事を知りたければこの本を読めと『1号捕虜』の本をくれました」

「父の生き様は現代のヒントにもなる」。潔さんは今年、父の「手記」の復刻版の出版に携わりました。

潔さん:
「『死にたい死にたい』。死を求めるところから、悩み苦しんで(生へと)転向していった。こういう様が、不登校になったり、いじめにあったり、お先真っ暗な状態になったところからどうやって這いだしていくか、ヒントが隠されていると思います」

■「一生お前と一緒に生きていく」…生まれた息子に亡くなった戦友と同じ名を付ける

 潔さんは父の手記などを通じ、あることに気が付きます。

潔さん:
「私の名前が潔(きよし)でございます。潜航艇に一緒に乗っていた方が、稲垣清(きよし)さん。やっぱり稲垣清さんの『きよし』を背負っているのかなと…」

 酒巻さんと稲垣清さんは、2人で同じ潜航艇で出撃しました。真珠湾に近づく前に、敵の爆雷攻撃を受けて座礁した2人は海に飛び込みました。しかし、稲垣さんは荒波に巻き込まれ、命を落としました。戦後、酒巻さんは生まれた長男に「きよし」と名付けました。

潔さん:
「一緒に出港して、一緒に舟に乗って、稲垣清さんを死なせてしまった自分に、『一生お前と一緒に生きていくんだよ』という気持ちをね、持っているんじゃないかなと」

■「九軍神の碑」の横に建てられた石碑には10人の写真が…80年経ってようやく再会した10人

 12月8日、潔さんは、父が極秘で訓練を行った愛媛県伊方町の三机を訪れました。かつて、父が寝泊まりした旅館には、出撃した10人の写真が展示されています。過酷な訓練の合間に楽しくすごした日々…。

潔さん:
「非常に厳しい訓練をして特攻で行った10人の気持ちはすごく強いものがありまして、戦後も(父は)たびたび三机を訪ねているんですね。一緒に特攻に行ったみんなの声が聞こえると」

 酒巻さんが訪れていたのは、「九軍神の碑」。戦後21年の時に、海を一望できるこの場所に建てられました。そこに、酒巻さんの名は刻まれていません。

その九軍神の碑の横に新たに作られた石碑には、9人と一緒に写る酒巻さんの姿がありました。酒巻さんの手記を読んだ人たちが、「歴史に埋もれさせてはいけない」と建てました。

潔さん:
「父にとっては、ここは第二の故郷。同胞の声を聞きながら安らかに眠れるんで、こんな嬉しいことはない」

 80年経ってようやく再会した10人。再び戦争が起きないよう、歴史の真実を伝え続けます。

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