岐阜県岐阜市では節分の時季になると、街中に巨大な赤鬼が出没します。なぜ、たくさんの赤鬼が出現するのかを調べてみると、敗戦で沈む岐阜市民を元気づけたいという当時の住職の想いや、赤鬼が竹や美濃和紙で作られているなど、岐阜ならではの理由がありました。

■寺の入り口に4.5メートルの赤鬼…岐阜のお寺が巨大赤鬼を立てるワケ

 岐阜駅前の大通りを歩いていると、お寺の入口に巨大な赤鬼を発見。その表情は、少しトボけた感じで首を傾げています。奈良時代から続くという正覚院(しょうかくいん)の住職に、話を聞くと…。

正覚院の住職:
「節分の時季に赤鬼を。私の祖父の頃に檀信徒さんが厄払いで作ってくださって。(赤鬼は)私より歳上」

【画像20枚で見る】なぜ岐阜市には節分の時季に『巨大な赤鬼』が出没するのか“岐阜ならではのワケ”

 節分祭りが近づくと毎年飾るという高さ約4.5メートルの赤鬼は、住職が子供の頃にはすでに存在しており、50年以上前に奉納されたものだといいます。竹でできた骨組みの上に、和紙を貼って製作されています。なぜこの時季、岐阜では赤鬼を立てるのでしょうか。

同・住職:
「当たり前…。全然考えたこともなかった。岐阜市以外にはないんですか?」

住職の感覚では、節分といえば赤鬼。どの地域でも当たり前のように赤鬼を飾ると思っていたそうです。

■毎年有志20人で製作…年々凛々しくなっていく迫力満点の赤鬼

 他にも赤鬼がいるということで、向かったのは金華山の麓にある善光寺。境内には、先ほどの鬼とは違ってよりリアルで睨みをきかせた赤鬼が立っていました。この迫力に魅せられたのか、写真を撮る人たちが…。

女性:
「インスタやってると上がってきますね」

この“映える鬼”は、2018年から地元の有志が手作りしているといいます。

鬼を製作した男性:
「善光寺さんの鬼の特徴は、毎年イチから作るのがポイント」

毎年“新作”が登場。年によって雰囲気も違い、4年前の初代の鬼はあまり強そうに見えません。それが年々、強そうに…。

赤鬼は、金華山の麓の竹で作った骨組みに美濃和紙を貼って、3日間かけて製作。

節分を知らせるだけでなく、共同作業で地域の一体感を生みだす存在にもなっています。

■敗戦で沈んだ岐阜の人たちを元気づけたい…70年前に先々代の住職が始めた巨大赤鬼

 他の寺にも影響を与えた“元祖赤鬼”がいるということで、玉性院(ぎょくしょういん)へ。向かっていると、これまでで最も大きな赤鬼に遭遇。

足元に立ってみると、その威圧感と圧倒的なスケールを感じます。さらに…。

女性:
「もうひとつ向こうの角と、玉性院の前に(鬼が)いる」

 聞いた場所に行くと、今度は目が光る特撮映画に出てきそうな、ビル3階分の高さはある赤鬼が。

そして玉性院の敷地内には、背はやや低いものの表情の恐ろしい赤鬼がいました。住職に、なぜ岐阜のお寺では赤鬼を立てるのか伺いました。

玉性院の住職:
「1番の理由は『節分のお祭り始めますよ』って案内看板。これで71回目」

 きっかけは1952年に始めた「節分つり込み祭」で、70年の歴史があります。赤鬼に扮した厄男を神輿に担ぎ、町内を練り歩いて一年の無病息災を願うお祭りで、その開催を知らせるために境内や近くの交差点に赤鬼を立てるようになったといいます。住職によると岐阜の巨大赤鬼の元祖は、玉性院で間違いないそうです。

同・住職:
「戦後焼け野原で、先先代が(祭りを)思いついて、それなら案内看板を立てないかんと…」

敗戦で気持ちが沈んでいる岐阜の人たちを元気づけたい…。赤鬼誕生の背景には、そんな想いで始めた「節分祭り」と「巨大な鬼」がありました。しかし、あれだけ大きな赤鬼をどのように設置しているのでしょうか。

同・住職:
「胸と腰から下と腕と頭と分解できます。クレーン車も来て現場で組み立てる。胴体の中は竹を編んだもの。美濃和紙で巻いている」

こちらの鬼も、地元の竹と美濃和紙が使われていました。「岐阜には、竹籠職人も多く美濃和紙もあるので、他の寺もマネしやすかったのでは」と住職は推測します。

岐阜には、巨大赤鬼の製作にピッタリの条件が揃っていたのかもしれません。

■保管場所も考え顔だけに…人気アニメをモチーフにした“顔だけ赤鬼”

 最後に最新の“トレンド赤鬼”がいると聞き、弘峰寺(こうぶうじ)へ。本堂の前には、2021年にできたばかりの大きく開いた口が特徴の“顔だけ赤鬼”が設置されていました。なぜ顔だけなんでしょうか。

弘峰寺の住職:
「岐阜には大きな鬼はたくさんいますので、顔ぐらいならもっと大きいものが作れるんじゃないかと」

この寺では、保管場所も考えて高さ2メートル70センチの顔だけの赤鬼に。ちなみにこの赤鬼は「鬼滅の刃」のキャラクター煉獄杏寿郎をモチーフに作られたといいます。

 岐阜市に赤鬼が多い理由を調べてみると、終戦直後の岐阜市民を元気づけたいという住職の想いと、美濃和紙や竹といった材料が入手しやすい環境があった事が分かりました。