ラグビーのW杯で日本は下馬評を覆し、4戦全勝でリーグ戦を終えて史上初のベスト8へ進んだ。ここからは“Dead or Alive”、1発勝負のトーナメント戦で手に汗握る試合が予想される。

 自称「世界初のラグビー登山家」、愛知県春日井市の長澤奏喜の連載も5回目に繋がった。

 ベスト4を懸けて戦うのは強豪・南アフリカ。過去W杯で2度優勝、今回も優勝候補の一角だ。前回のイングランド大会で日本代表は、「ブライトンの奇跡」を起こし、歴史的な勝利を挙げたが、9月6日にW杯前最後のテストマッチで対戦した際には7-41と完敗した。

 対戦相手の南アフリカは人種差別の名残がある特殊な国。最高峰のマファディに登頂するため訪れた長澤は、ラグビーによって人が人種を超えて繋がる瞬間を目撃したのだった。今回はその旅の前半をお届けする。

■多様な民族が共存する国家…ひとつにしたのは“ラグビー”だった

 南アフリカにはJICAの活動やプライベートでそれまでにも4度訪れたことがあった。400以上の民族が暮らし、11の公用語が使われているこの国では、人口1割にも満たない白人が優遇される人種隔離政策=アパルトヘイトが1994年まで行われていた。今でこそ法の上では肌の色によって差別されることはないが、まだ至るところに当時の傷跡があった。

 JICAの研修で訪れた際に、プレトリアという町を案内してもらったことがある。街の中心部からそう遠くない地域で、看板に「Hotspot」という文字が書かれていた。

 日本では「Wifiスポット」を示す言葉だが、この国ではそうではない。「危険地域」を指す。この付近ではカージャックが多発していて、「近づくな」、「早く通り抜けろ」と注意を呼びかけるための看板だ。バラッグ小屋が密集し、一見して危険だとわかる。

 舗装されていない道路には謎の“線”が横切っていて、よく見ると遠方の電線に繋がっていた。それで集落の電気を賄っていた。この国の自動車会社に勤めている日本人の友人も、別の街で銃を突きつけられ、恐喝に遭ったと言っていた。「あり金を出せ。そうしなければ殺すぞ」と脅かされたため、言う通りにして危険を免れたそうだ。

 南アフリカはアフリカ大陸で最大の経済大国だが、光だけではなく、大陸を取り巻く「闇」も流れ込んでいる。そんな中で「ラグビー」は、この国が持つ複雑性を解消する「希望」だ。肌の色や民族、信仰、文化が異なっていても、多様性を尊い、ラグビーで国が一つになれることを過去の優勝で証明した。

 代表選手に選ばれるのは白人だけという時代が続いていたが、1995年にこの国で開かれたラグビーW杯の第3回大会では、白人と黒人の混合チームで出場し、優勝。ラグビーで国が一つになった瞬間だった。

■“竜の山々”にある南ア最高峰「マファディ」は3泊4日50kmの旅

 2018年9月18日。ラグビーW杯の開幕1年前、僕は南アフリカ最高峰・マファディ(3,450m)登るために2年ぶりにこの国を訪れた。

 マファディは南アフリカの内陸、ドラゲンスバーグ山脈の中にある。古の時代から「竜の山々」と呼ばれ、1000kmにも渡る切立ったその山脈を当時の人は竜の背ビレのようにも見えたものかもしれない。

 2日後の19日、ダーバンでレンタカーを借り、およそ5時間かけてインジュスシ・キャンプ場というマファディのスタート地まで向かった。

 都市部から一歩抜けると巨大なとうもろこし畑が広がっていた。50mほどの巨大なスプリンクラーがあり、あまり人の手をかけずに農作物を育てている。農作地帯を過ぎると手づかずの荒野に景色が変わる。途中、野生のシマウマとダチョウが高速道路の路肩にいた。

 目的地近くの村では、車に向かって手を振る現地の子供たちが数多くいた。あまり人が来ないところなのだろうか、郊外ということもあり、トタン屋根の小さい家が点々と並ぶ。アフリカ大陸の南部ではこういった場所の住人は黒人がほとんどだ。しかし、こうした田舎は人柄が良く、平和な村が多い。実は都市部よりもよっぽど安全だということを過去の2年間のジンバブエでの生活から学んだ。

 当初はひとりでマファディの山頂を目指そうと思っていたが、50キロに渡る長距離のトレッキングということもあり、南アフリカ人と共に行動した方が彼らについてより知ることができるだろうと考えてツアーに申し込んだ。

 僕以外にも、3人の南アフリカ出身の白人客がいた。ツアーを共にするのは、ほかに白人のガイド1人と黒人のポーター(荷物を運ぶ係)2人の合計7人。

 3泊4日で山頂に登り下山するスケジュール。現地で皆と合流し、翌20日の午前10時、マファディの山頂に向かって出発した。

■ラグビースタイルの僕を見て…道中の話題は“ブライトンの奇跡”

 日本代表のジャージに身を包み、手にはラグビーボール…。そんな僕の姿を見て、道中はやはり、前回大会の「ブライトンの奇跡」の話に花が咲いた。

 ガイドの男性は、「忘れもしない。あの試合の後、ショックで家族も友人も誰もかも、口を開こうとするものはいなかった」といまだに悔しそうに語った。ツアー客の1人も「あの日の夜、悔しくて眠ることができなかった」と口を揃えた。しかし、6人全員が「我らのスプリングボクス(南アフリカ代表の愛称)に勝った日本は強い」と評価してくれた。

 あの勝利を“フロック”扱いしたり、負け惜しみを言うこともなく、純粋に日本代表の力を褒め称えてくれることが嬉しかった。ただ、前回大会で南アフリカは3位だったが、今回は「優勝する!」と、山にこだまするほどの声でガイドの男性が叫ぶように訴えていた。南アフリカ人は皆がラグビーを愛している。

■登山でも垣間見えた「人種差別」の名残り

 その一方で道中、白人ガイドと黒人ポーターの間で何とも言えないギスギスしたものを感じた。まだ白人と黒人の間では見えない壁があるように見えた。

 一緒の隊なのに、ポーター達は自分たちの準備を済ませると僕たちを置いてさっさと山に向かってしまった。休憩の時もポーターはガイドや僕らツアー客をどこか避けているようだった。それでいて、ガイドからの指示やの依頼を黙々とこなしていた。

 それはツアー客の3人も白人で、似たような態度だった。僕はポーターに物を持ってもらったり、テントを張るのを手伝ってもらったりすると感謝の気持ちが沸くが、3人は「それが当たり前でしょ」と言わんばかりで、ポーターたちに感謝や労いの言葉をかけているようには見えなかった。

 食事中には、ガイドの男性は自分と僕らの食事を用意したが、ポーターは自分の食事を自分たちで作り、僕らと離れた場所で食べていた。一緒に作れば負担も減るし、何より美味しく感じるはずなのに、ポーターは僕らと極力関わらないようにしているように見えた。

 どこか遠慮がちなポーターの振る舞いがこの国の複雑さを表しているように思えた。アパルトヘイトがなくなり25年が経ったが、当時の名残りは南アフリカに住む人々の心に根強く残っている気がした。

 15kmほどをおよそ5時間かけて、2000mあたりまで登り、1日目の行程を終えた。この1日で目の当たりにした、未だに残っている差別が頭から離れないまま、夜を過ごした。

(後半へ続く)

■長澤奏喜(ながさわ・そうき)プロフィール

1984年10月、愛知県出身(大阪生まれ)。愛知県立明和高校卒業後、慶應義塾大学理工学部を経て、大手IT企業に就職する。在職中にジンバブエでの青年海外協力隊でジンバブエを訪れた際に、世界におけるラグビーW杯の熱を肌で感じる。2016年に退社し、2017年3月、世界初のラグビー登山家となり、2年半で過去W杯に出場した25カ国の最高峰にラグビーボールをトライする、# World Try Project に挑戦。2019年8月27日、日本の富士山で、25カ国すべてのトライを達成。

長澤奏喜HP「I am Rugby Mountaineer」(僕はラグビー登山家)

サイトURL
https://www.worldtryproject.com/