東海地方を襲い、5000人以上の死者を出した「伊勢湾台風」から今年でちょうど60年。当時の被害の様子を、写真店を営んでいた男性が8ミリビデオで撮影していました。

 今年になって初公開。映像に記録されていたのは伊勢湾台風の生々しい被害の様子…。撮影した男性の想いを取材しました。

■「ほとんど真っ黒」…米軍が撮影した航空写真で分かる惨状

 壁画のように見える大きな画像…。60年前に起きた伊勢湾台風から2週間後、アメリカ軍が撮影した名古屋周辺の航空写真です。

 幅6メートル、長さ3メートルの大きな展示。名古屋大学と地図の専門業者が協力し、約400枚をつなぎ合わせ、1枚の写真のように仕上げました。

 堤防が切れているのは、愛知県弥富市の鍋田川。黒い部分は全て水で、濃尾平野は内陸部まで長い間、浸水していたこと分かります。

名古屋大学減災連携研究センター 田代喬特任教授:
「上空から俯瞰して見ることによって、その範囲の広さ、影響の広大さが一目でわかる、これは非常に大きなことだと思います」

■死者5000人以上出した伊勢湾台風の猛威…被害の様子が8ミリビデオに

 1959年(昭和34)9月26日の伊勢湾台風。

 伊勢湾岸を直撃。5000人以上が命を落としました。

 大きな被害が出た愛知県旧佐屋町。当時の貴重な映像が残されていました。

 海のように広がる水の中から、わずかに顔を出す屋根。

 住宅も…校舎も…見渡す限りの水。

 伊勢湾台風の直後の町が、まだ珍しかった8ミリビデオで撮影されていました。

■撮影した写真館経営者の男性が語る“変わり果てた町”

 撮影したのは当時、写真館を営んでいた伊藤博陽さん(87)。台風の翌朝、変わり果てた町を目の当たりにし、必死でカメラを回しました。

Q.当時の様子は?
伊藤さん:
「だんだん(水が)増えてくる様子がわかったといいますかね。農地のところがだんだん水が増えていきますから、その光景が分かったんです。写真を志しているのだから何かのお役に立とう、記録を作ろうと。その時はそう思ったんですね」

 この後に映っていたのは、消防団などの救助活動や、復旧作業。町の幹部からお願いされて撮りました。町中が水に浸かっていたため、船からの撮影です。

Q.これは川ですか?
伊藤さん:
「川じゃないです、田んぼです。全部田んぼです」

 現在の愛知県愛西市にある、名鉄佐屋駅も…。

伊藤さん:
「水はしっかりありましたよ、ここは。一面ですね、もうずっと野原ですよ。この辺家はありませんでしたからね。ずっと田んぼ、だいぶ先まで田んぼでしたから」

Q.駅としては使い物にならなかった?
「それはなりませんね、あんな調子ではね。線路がだいたい水浸しになっちゃってますからね、だめでしょう。水が引くまではね」

■60年前もあった「助け合い」の風景…映像で大災害を後世に

 フィルムには、自衛隊が被災地を支援する様子も。伊藤さんによると、水を配給しているところだといいます。

伊藤さん:
「自衛隊が水を持ってきて、各家庭は水を使えませんから、出ませんから。ドラム缶に水を運んでそれぞれ飲料水を取りに来ているんですね」

 また「勤労奉仕」と呼ばれた、ボランティアによる炊き出しの映像も残されていました。60年前も今も変わらない「助け合い」の風景です。

伊藤さん:
「これは、避難所で炊き出しでよばれてるわね、ご飯とおつゆだけかね、お新香もあったかしら。当時でも食べることはね、災害でも何かあるとこの集落でも(炊き出しを)出しましたよ。お米と梅干ですかね」

「ところがだんだん梅干しが切れちゃうんですよ、何日かあるから。だから仕舞いには梅干しなしで出されたこともあります。みんな無償ですよ、それぞれのうちが少しずつ出すわけです」

 この映像を公開しようと思ったきっかけは、伊勢湾台風の年に生まれた長男の言葉でした。

伊藤さんの長男・繁典さん(60)
「各地で台風の被害がたくさん報道されていますけれども、60年前にもこんな大きな被害があったんだよと、それだけ甚大な被害があったんだなということが、目に見えて分かるというのがオヤジが撮ってくれたからだと思います。これを後世に残していくというのは、私の仕事だろうと」

伊藤博陽さん(87):
「一つの役割かなと。自分の職業の役割が、こうして皆さんのお役に立てればかなということですね。息子もそれを取り上げて、積極的に残していこうという気持ちを感じたんですけど。嬉しい限りですね」

 アメリカ軍の航空写真の展示は、愛知県名古屋市の名古屋大学減災館で、来年1月17日まで展示されています。最寄り駅は名城線の名古屋大学駅です。