「TOKYO 1940」。80年前の昭和15年に予定されていましたが、戦争のためできなくなったオリンピックです。その幻となった「東京オリンピック」の名古屋の候補選手の思いに迫りました。


■戦禍で消えた…幻の「TOKYO 1940」

 4年に1度行われるオリンピック。しかし時として平和の祭典は開催の機会を奪われました。

 矢外節子さん。1925年、大正14年の生まれ。2019年4月に93歳でこの世を去りました。

 次男の治久さん(70)は、生前、節子さんがオリンピックのたびに、「私が何で出られなかったの」「やっていてくれたらな…」と語っていたといいます。

 それは、1964年の東京オリンピックではなく、戦時下の1940年、昭和15年に予定されていた“幻の東京オリンピック”です。

 名古屋市の愛知淑徳高等女学校時代、水泳選手として活躍していた節子さん。2年生の時、自由形200mで2分53秒を記録。全国3位の好タイムだったといいます。

 当時、水泳日本は世界の舞台に立つ花形の種目でした。

■アジア初のオリンピック決定も…無念の中止

 1936年、昭和11年にナチスドイツの統制下で行われたベルリンオリンピック。

 この大会では名古屋市出身、あの「前畑ガンバレ!」の前畑秀子が、日本人女子選手初の金メダルに輝くなど、競泳陣が11個のメダルを獲得し、大躍進を見せました。

「水上ニッポンの実力発揮」と、その名を国内外にとどろかせました。

矢外さん:
「お袋からは前畑さんの話は聞いたことがあります。『私の先輩で前畑さんって人がいたのよ。だからすごく刺激された』と。背中を追ってやっていたところもあると聞いていました」


 このベルリンオリンピックの直前、もう1つ日本国民を熱狂させるニュースがありました。

『来たぞ!オリムピック!』。

 1936年(昭和11年)7月31日、IOC総会の投票で対抗馬のヘルシンキに9票差を付けて勝利。日本初・アジア初のオリンピック開催決定の報せに、日本中が歓喜しました。

 しかし、1937年の盧溝橋事件に端を発し、日中戦争に発展。この軍事衝突で各国からは参加ボイコットなどの動きが強まります。さらに戦禍での物資や人員の確保を巡り、国内でも開催反対の声が。

 そして1938年(昭和13年)7月、節子さんの東京オリンピックの夢は幻と消えました。

矢外さん:
「唯一のそれ(東京大会)が心の支えで、戦争を乗り切れるような、それだけが生きがいで生きていたと。だから中止になったのはすごくつらかったと。青春がそこ(東京大会目標)でずっときているから、『なんでオリンピック出られないの』って」

 その後、名古屋を襲った空襲。節子さんが水泳の大会で獲得した数々のメダルや賞状も、すべて灰に。戦況の悪化で競技を続けることさえできませんでした。

矢外さん:
「戦争の時は名古屋にいたが辛かったって。何しろ辛かったとしか言わなかったですよね。戦争に関しては言うのが嫌だったのかも、子供(私)にも。あまり家の中では戦争の話はしなかったですね」


■見守った長野での夢舞台…夢が幻と消えてから60年 胸によぎった思い

 長野県・白馬村。45年ほど前、節子さんは治久さんがペンションを始めたのに合わせ、白馬村に移住しました。

 このペンションには母・節子さんの水泳への思いが詰まったプールがありました。

矢外さん:
「プールです。今はこの地域の防火水槽という。持ちたかったって夢があったみたい。ちゃんとしたプールをね。母の肝入りです」

 10m×5mの小さなプール。今は使われていませんが、涼しい気候の白馬村では珍しいプールに集まった地元の子供たちに、泳ぎを手ほどきしていたといいます。

 この白馬で節子さんは、再びオリンピックへの思いで胸を熱くすることになります。1998年の長野オリンピックです。

矢外さん:
「感激でしょうね、やっぱり。自分も出たかったなと思うでしょうね。現場での盛り上がり方は違いますから。背負いたかっただろうな、このエンブレムをね」

 東京大会返上から60年後。ジャンプ台脇の応援席で、節子さんは夢の舞台を見守りました。そこで胸をよぎった思いとは…。

矢外さん:
「『私は出たかったのよ。でも幻になっちゃった』という話をしょっちゅうしていました、白馬に来てから。自分のようにならない世界が欲しかったんだと思うんですよ」

 長野オリンピックの後、反戦を訴える活動を始めた節子さん。90歳を超えても、体を支えてもらいながらも街頭に立ち続けました。

矢外さん:
「戦争なんてしちゃいけない。希望も夢も砕くわけですから、そういう世界にならないことを望んで一生懸命。多分(戦争を)許せなかったんだと思います」

 戦争で失われたもの。日常、たくさんの命、そしてオリンピック…。終戦から75年。

矢外さん:
「悔しかったんでしょうね。だから戦争は嫌だ、戦争がない世界、平和な世界がいいっていうのを死ぬまでやっていたわけですから」


※記事内の新聞の画像は  柏書房「都新聞 復刻版」(鶴舞中央図書館所蔵) 出典