戦時中、中国東北部にできた満州国に岐阜県から渡った「黒川開拓団」。この黒川開拓団が戦後、現地で生き残るために未婚の女性をソ連兵に差し出し「性の接待」をさせたという事実が明らかになっています。

 仲間と共に日本に帰るため、犠牲となった女性たち。しかし帰国後、心に傷を負った彼女らの声はかき消されて、その記憶は封印されました。

 終戦直後の混乱のなかで犠牲となった95歳の女性が、75年間語られてこなかった当時の記憶を語ります。

■「貧乏人は満州へ行けと…」女性が証言した満蒙開拓団の実態とその後

 2020年11月、岐阜県白川町黒川にある佐久良太神社で、満蒙開拓団の慰霊祭が行われていました。

黒川分村遺族会の藤井宏之会長:
「ソ連兵に対する接待をお願いされた苦しみ、うら若き乙女たちの奪われた青春の犠牲の上に得られたものであることを、しみじみと深く肝に銘じ…」

 『乙女の碑』には、悲しい事実があったことが刻まれています。

 戦時中、中国東北部にできた「満州国」。日本から27万人が海を渡りました。黒川開拓団は662人でした。安江菊美さん(86)。7才の時、一家5人で満州へ渡りました。

安江菊美さん:
「貧乏人は満州へ行けと。次男・三男坊は行けと強制的だったの。私の父親は非農家の貧乏人の三男坊です。まさに的中です」

 開拓団は現地の人たちの畑や家を奪いました。開拓とは名ばかりでした。しかし、敗戦で…。

安江さん:
「8月15日になったら、満州の人は手のひらを返したように、200~300人の満州の人が押しよせてくる。物盗りに…」

 現地住民による略奪、殺戮。集団自決をする開拓団もある中、黒川はソ連兵に未婚の女性15人を差し出し、“性の接待”をさせ、開拓団を守ってもらう取引をしました。

■ここを守るため犠牲になれと…未婚の女性たちが担ったソ連兵に対する“性接待”

 当時、接待役だった佐藤ハルエさん、大正14年生まれの95歳です。

ハルエさん:
「(写真を指して)私はこれ。この人は犠牲にならなんだけど…。(今残ってるのは)これとこれと私と3人です。もうみんな亡くなりました」


 性の接待をさせられたのは、18歳以上の未婚の女性15人。当時20歳のハルエさんは、1945年の9月から2か月ほどソ連兵の相手をしました。

ハルエさん:
「ここを守るために、それは仕方がないと思って。犠牲になれって、(結婚している)奥さんには頼めんでな、あんたら娘だけ犠牲になれって。そう長い時間じゃなかったんですけど、女を出せっていわれるから、性交の相手するだけで…」

 駅の事務室に引っ張られたというハルエさん。

ハルエさん:
「接待所は別棟のところにいくつか…たくさんの棟がありましたからね。穴ぐらのとこでも、今日はここやって言われたこともありますし、あっちの棟に引っ張られたこともありますし、覚えがありません」


 体への影響もありました。

ハルエさん:
「性病をもらったりして。お医者さんの先生が、いろいろ手入れしてくださって、注射してもらったり。たくさん亡くなっていきましたけども、おかげで私や今残ってるのが3人。12人が接待に出されて、病気もらって、あとは死んでいったんです」


(接待役の女性が残した手記)
『氷点下30度となる真夜中に、団の安全守るため、着たきり雀の乙女たち 野獣の如き彼らには人の情けは持たぬのか』

 4人の女性が性病と発疹チフスにかかり、満州で亡くなりました。ハルエさんは、女塾の塾長に「それが当たり前と思い頑張るんや」と言われたと話します。

ハルエさん:
歌【われらは仏の子どもなり 幼きときも 老いたるときも 御上の袖にすがりなん】

 村のため、お国のため。女塾で教えられた歌を歌って生き抜きました。ハルエさんは、どんなに苦しくても死のうとは思いませんでした。何としても日本に帰りたい、その一心で…。

■「汚れた女」と呼ばれ性接待は“なかったこと”に…75年間封印されてきた犠牲

 戦時中、岐阜県から満州に渡った黒川開拓団。終戦から1年後、故郷に帰ったのは662人のうち、451人でした。しかし、女性たちは「汚れた女」と呼ばれ、性接待は“なかったこと”にされました。

当時10歳だった新田貞夫さん(85):
「もうずっとタブーでしたから、かん口令が。帰国団員の皆さんは、口を閉ざしちゃったんですね」

黒川分村遺族会の藤井宏之会長:
「自分の親たちがやったことに対して、それが恥じることだということで口に出さないようしてきたということで…。その方が一番恥じるべきじゃないかと…」


 乙女の碑の隣にある真新しい碑文。性接待の事実が記されています。建てられたのは2年前、きっかけとなったのは、女性たちの告白でした。

 終戦から70年近く経って、初めてハルエさんは公の場で話しました。

ハルエさん:
「私ども12~13人の未婚の女性だけを集めまして、『どうかあなた方は、ここを救うために悲しいし苦しいだろうけど、ソ連兵の犠牲になってくれ』と言われまして」

■歴史の渦の中で犠牲となった95歳女性が振り返る人生…「苦しい思いをしたことは忘れないが、よう生きられた」

 長野県阿智村の「満蒙開拓平和記念館」。開拓団の歴史を伝える民間の史料館です。

満蒙開拓平和記念館の寺沢秀文館長:
「もちろん、送られた女性が一番つらくて悲しかったんでしょうけど、送り出さざるを得なかった人たちも辛い思いをされたことは間違いなくて…」

 寺沢館長は「結果として、弱い女性や子供が犠牲になったのが満蒙開拓であり、その状況に追い込んだ当時の国策、国の在り方、そしてそれを支持してしまった国民にも、もちろん責任がある」と話します。

 故郷を追われ、ひるがのに移り住んだハルエさん。満州帰りの夫と結婚し、2人で牧場を経営しました。

ハルエさん:
「(写真を指して)これ嫁ですし、嫁のお母さん。これは茂喜、これは孫です。嫁がまたええ嫁でね、ちゃんとしてくれる。孫もね、3人おりますけど」

 ハルエさんは現在、家族に囲まれて静かに暮らしています。

ハルエさん:
「苦しい思いをしたことは忘れませんけどもね、いつまで生きられるかわかりませんが、よう生きられたと思っております」