宮沢賢治の小説にある「注文の多い料理店」…ではなく、「注文を『まちがえる』料理店」が、愛知県岡崎市にあります。飲食店が認知症の人を従業員として迎える取り組みで今、各地に広がっています。

 「ちばる食堂」では、4人の認知症のスタッフが働いていて、注文を間違えたり、料理を運ぶお客さんを間違えたり…。

 それでも、常連のお客さんがさりげなく手助けしたりして、店には温かい笑顔があふれています。

 ふさぎこんでいたのが、働くことで明るい表情に変わる。「ちばる食堂」には、生き生きと働く認知症患者の姿がありました。

■掃除もテキパキ!一見認知症とはわからない…「注文をまちがえる料理店」で働くスタッフ

 岡崎市での住宅街にたたずむ日本家屋風のお店。

 沖縄料理店の「ちばる食堂」です。

 看板料理は「ちばるそば」。

 鶏を6時間煮込んだスープに、肉厚なソーキがのっています。

 ホール担当の池田ノリ子さん(74)。

池田さん:
「お待たせしました」

店長:
「それ、お座敷ね」

男性客:
「気まぐれご飯セットと坦々そば」

店長:
「(注文書を見て)かまたまじゃないよ、坦々だよ」

 ここは「注文をまちがえる料理店」。

 岡崎市内で、カラオケ喫茶やスナックを営んでいた池田さん。しかし10年ほど前にくも膜下出血で倒れ、その後認知症と診断されました。

池田さん:
「お水をあげましょうかね」

常連の女性客:
「よくわかったね、ノリ子さん。いつも、いいタイミングで水くれるね」


 客へ目を配り、店の掃除もテキパキとこなす。一見認知症とはわからないほどですが…。

ホウキで集めたゴミのことは忘れてしまいます。

女性客:
「メニューありますか」

池田さん:
「今、持ってきますね。(メニューを持ち違う席へ)あれ、どこ行かれたかな、帰っちゃったかな」

■介護社会と一般社会の壁を壊したい…介護福祉士から転身し「注文をまちがえる料理店」を開店

 ちばる食堂の店長、市川貴章さん。「認知症の方でも頑張れる場所にしたい」という思いを込めて、沖縄の方言で「頑張る」という意味の「ちばる」を店名にしました。

 以前は介護福祉士として介護の現場に身を置いていましたが、東京から広まった注文をまちがえる料理店の取り組みを知り、去年の春、自ら「ちばる食堂」を開店。

 市川さんは「認知症の人でもできる事を知ってもらいたい。介護社会と一般社会の間の壁を壊す方法を模索していく中で、この道を見つけた」と話します。

■「介護をしないのが本当の介護」…本人がやれるところまでやり後は客に手伝ってもらえばいい

 「ちばる食堂」には、60代から80代の認知症と診断されたスタッフ4人が働いています。

常連の女性客:
「孝雄さん、注文はこれとこれ。覚えた?」


 8年ほど前、認知症と診断された、スタッフの鈴木孝雄さん(84)。 言葉では覚えられないため、間違えないようメニューを指で押さえて、厨房へ向かいます。

鈴木さん:
「店長、これとこれ」

市川さん:
「ピリ辛ネギとナポリタン」(客に聞こえるような声で)


 メニューを覚えることは難しいですが、常連のお客さんが注文の仕方を工夫してくれます。しかし、初めて訪れる人には…。

女性客:
「これは、どんなご飯なんですか」

鈴木さん:
「知らん…」

同・女性客:
「ちばるそばのセット」

鈴木さん:
「わからん…」


 もちろん、うまくいかないこともあります。

市川さん:
「ここからフォーク出して」

鈴木さん:
「フォークって何?これでいい?」

市川さん:「完璧」

市川さん:
「介護をしないのが本当の介護だと思ってきて、僕は出来るだけ、カウンターより出ないように。後は本人のやれるところまでやる。後はお客さんに手伝ってもらえれば、それでいいのかなと思っているので」


■娘「社長をして生き生きとしていたのが」…記憶も失っていく父に膨らんでいく家族の不安

 最近のことはすぐに忘れてしまう孝雄さん。いつも口にするのは心に刻まれた記憶です。

鈴木さん:
「おれセーター作ってたんや。何十年もやってたから、社員も51人もおった」

常連の女性客:
「覚えてるんだ。ちゃんと」

 鈴木さんは以前はアパレル関係の会社で社長をしていました。7人兄弟の末っ子として岐阜市で生まれ、中学卒業後、15歳で県内の繊維問屋に勤めました。

 岐阜から毎日のように通った仕入れ先の岡崎市のニット製造会社の娘・康子さんと出会い、24歳で結婚。

 婿養子として会社を引き継ぎ、自らニットのデザインをするなど、社長としておよそ40年間働きました。

次女 美帆さん:
「(アルバムの中の妻・康子さんを指して)お父さん、これ誰?」

鈴木さん:
「忘れちゃった…」

 最近は、心に刻まれた記憶も少しずつ、失われつつあります。

美帆さん:
「ここにみんなを呼んで、パーティーをしょっちゅうやっていました」


 鈴木さんは家の中にバーを作ってしまうほど多趣味でしたが、認知症が進むにつれて、外出することも少なくなりました。

 美帆さんは、毎日仕事に行き、生き生きとしていた父の姿がみられなくなり寂しかったと話します。そして、父が認知症であることを、周囲に話せませんでした。

美帆さん:
「徘徊しちゃうとかのイメージが強かったので…。思いが伝えられないし、私も組み込んであげられない。仕事しながら病院へ連れて行ったり、家でみてとか、気持ちがいっぱいいっぱいになっちゃって」


 家族も徐々に不安を抱えていきました。

■「ちばる食堂」は生きている証…表情が変わった 認知症のスタッフが感じる働く喜び

 そんな鈴木さん家族を変えたのが、ちばる食堂。

 鈴木さんは、ちばる食堂からもらった給料を箱の中に入れて、使わずに大切に保管しています。

美帆さん:
「以前は『認知症だからできないから』と制限されていたんですけど、ちばる食堂に行くようになったらやらせてもらえるっていう喜びがあって、表情が本当に変わったので、すごいありがたいなと思っています」

 美帆さんは、市川さんには何かあったら相談もでき、気持ちから支えてもらっていると話します。

 昔の記憶も薄れつつある鈴木さんですが、ちばる食堂で働く記憶は、確かに刻まれていました。

女性客:
「認知症の祖父母が、他のお店に行くと煙たがられるんです。お水こぼしちゃって…。(ちばる食堂の方々は)すごく生き生きとしている。家の外で居場所があるのが、すごくいいなと思って」

常連の女性客:
「違うところに(料理を)運んだとか、それを別にみんな怒るわけでもなく、温かい目で。お客さんが『あっちだよ』と教えてあげたりして」

 認知症患者や家族にとって「ちばる食堂」は、今を生きている証です。
 
 認知症介護研究・研修大府センターの調査によると、65歳未満の「若年性認知症」の従業員を雇用している企業は2.7%。

 若年性認知症と診断されたあとの、平均在職期間は2年と早い段階で退職しています。